3166文字、政治の矮小化の防ぎ方について(知性倫理美意識の権威が形骸である証拠となるものにも触れて)
2024-4-003
例えば、常識に対し妄信するのと反動反発するのとの二択しかない事態は、特定時空の個別性に合わせて加工された部分を剥いだ状態
(現代の日本や百年前のアメリカといった個別性の個々具体パターンが網羅的であり、また、個別性の取り違えが小さいほど精度高く獲得される為、
同種の他との共通要素捨象を軽視してる既存のパラダイム下にある知性倫理美意識によっては精度が期待できないこれ)に一旦遡り、
引き受けざるを得ない特定時空個別性を割り出して、それに付し直したもの(この受容は、
実際に常識とされてるものとの遠近によって、妄信系に近い見た目にも、反動反発系に近い見た目にもなる)は、
受容に値すると見なす立場から見ると、抽象度不足故のいらぬ対立の創出です。
(当然、この立場においては、付し直されたものが点として紡がれてる歴史から見た、変化の過不足に相当する歴史有り様は受容に値しないし、
遅速自体や受容に値しない歴史有り様から取ってきた二点を対置させたところでいらぬ対立なので、テキスト解釈にもこの立場は要求されるべきと考えます。)
利己利他の二択発想(同種の個々具体の差異を見出された事実をもってそれらを具体として持つ抽象状態に遡る反応の不在、および、踏まえる都合の付し直し処理の不在)も同様の構造ですから、
個別性の取り違え最小化の下での抽象化具体化の不十分さを、文系的な論理性の欠如
(限定作用が齎す影響に修正余地なさを持たせる処理、被限定の最小化状態の保存に必要なこれの不全)とすると、
内在不問外在軽視な有り様を自由と解する立場(典型自由観を前提とする思考や議論)は、
論理性欠如(上で言う受容に値しない歴史とは形骸な展開性の点で同じ)の現れであり、
自己であれ他者であれ、他種や無生物や概念であれ、内在場と外在場を持つもの全てについて、
存在尊重を場の尊重に包含してしまうだけの抽象化が不足してる(場の性質の疑似化は他の場による侵略に等しい為、
つまり、同種のAは尊重するが同種のBは尊重しない不整合を意味する為、それや内在不問を修正対象にしないのも抽象度不足)弊害、
言い換えるなら、井の中の蛙性や取り違え事態を問題状態に含め切れてない(対自己も一旦、
自己以外を含む抽象化や有限性そのものという次元を経る事で、井の中の蛙性を緩和する必要があるとの理解を欠いてる)弊害であると思います。
(場の尊重を先立たせる立場は、場に置かれてるものが、場に即した反応を受けたのであればその反応にはいらぬ偏りや囚われがなく、
場に即してない反応を受けたのであればその反応にはいらぬ偏りや囚われがあるとし、
特に、局面と着目無視との合致をもって自我や文化の肥大化は抑えられるとする平等観や自由観の採用に等しい。)
価値は場が持ってる偏りなので、価値について、場が存在するのと引き換えと言えるものだけが場に帰属してる時に立ち上がってる価値体系であるかどうか
(通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえた位置づけ、何の差異に関してその相関を見るかという観点設定、
場の偏りをこの内外性質に分離した時の後者に対しても前者を働かせ、選抜の基準を選抜するなど、
言わば、価値のある価値付けと価値のない価値付けを分ける処理)以外の論点は疑似問題扱いし、
例えば、真善美について、場(個々人の認識場なり、個々の社会なり)と無関係に価値を語る絶対主義
(場に合わせる事で生じる割り引かれなり加工なりを抑えるという発想でなく、拒否するという発想)も、
場に関する帰属修正余地を無視しながら場を根拠に価値を語る相対主義(ドーピングによる金メダル的茶番選抜な内容の真善美像)も、
真に受ける(いらぬ対立に加担する)事なく、同時に否定する知性倫理美意識
(場の尊重が先立ち、存在に関する帰属修正を場に対して展開できるこれら)を支持しつつ、
同時に否定する知性倫理美意識でない証拠(知性倫理美意識の権威が形骸である証拠)として、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存(先に見た論理性の欠如で存在尊重の抽象度不足な、
したがって、通用領域の狭さから観点を取り違えていなければ選ばれないはずの自由観と決別し、
何かができるできないという理由も、何かをするしないという理由もこれにする事で表層の有り様での肯定否定を回避してる生)の反映でない認識場(当然、感覚の構成や記憶の結び付けに対する、あるいは、感情なり意見なりの選抜に対する反映込み)や、
その実存(修正余地のない偏り)の集積でない社会(実存を主体像に拡張して、需給事情を構成する個々事情における割合の話と捉えれば、市場に置き換えた形になる)に対し、
個別性が根拠になる局面(例えば、内実不問な権利観では、存在するのと引き換えでないものまで存在に帰属させる、
個別性の疑似化の弊害である帰属操作的獲得が正当化されてしまう状況)であっても、修正余地を見ない(問題状態に該当しないとする)態度を扱いましょう。
ちなみに、知性倫理美意識には外側があるという発想は、抽象度不足故のいらぬ対立創出と思います。
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関には、肯定も否定も保留もこれに依拠してる為に外側がなく、
代わりに、何の差異に関してその相関を見るかという観点設定自体にも、その相関を見る働きの利き具合についての差異が、
次元設定自在性という人間性と相まってあり、この差異の反映として知性倫理美意識には、同働きを内包できているいないの差異があると考えます。
これを認めると、既存の知性倫理美意識の有り様を肯定するにせよ、否定するにせよ、
内包できてない知性倫理美意識を肯定的ポジションとして対置させてるのなら、いらぬ対立であり、論点を埋没させる有害行為です。
また、特定の人物について他の人とは異なる何かを持ってたり引き起こしたりが言えたとして、
この場合に、状況上自然な反応を採用する方針をもって過大反応も過小反応も同時に否定する処理は小学生でも可能である以上、
局面と着目無視との合致に整合的な平等観や自由観の獲得も、つまりは、いらぬ偏りや囚われに鈍感なまま、
もっと言うと、立ち上がってる秩序が帰属関係の修正余地を持っているかいないかの差異に鈍感なまま、平等概念や自由概念を捉えてしまう事態の回避も、小学生で可能です。
この獲得は、既存の左派右派枠組みは疑似対立であるとの気づきに繋がりますから、
余裕がない局面での次善の策以上の意義を、既存の左派右派枠組みに認めてる空間は、
小学生で達成可能な水準に至ってない理解力が影響力を持つ結果に生じてる矮小化枠組みの産物、との位置づけになるはずです。
この位置づけの浸透によって政治を矮小化から解放する為にも、局面と着目無視の不一致(肥大的自我や茶番選抜許容が見られた時点でこれが言える)をもって、
例えば、局面次第という曖昧さに頼れないだけの理由の有無という局面差異込みの話で、
曖昧明晰スペクトラム上の点を局面と無関係に定めてる秩序構築(立ち上がってる秩序の一種として意味も扱う)をもって、
文系的な論理性の不備(被限定の最小化状態保存の失敗)と見なす教育を義務教育に取り込みましょう。
(この取り込みは、高等教育以降で欧米文系の産物、個別性が根拠になる局面において個別性の取り違え最小化を優先しないパラダイム故に文系的な論理性を欠いてるこれに対し、
欠いてない場合という修正像を導けるようになる為の基礎の導入を意味すると共に、
自分自身はじめ個別性を根拠にしてるつもりでも勘違いにしかならず、言わば、個別性捨象が不全である為に理系者の要件を満たせない的事態の、
文系者バージョンの下での議論や思考を強いる既存パラダイムとの決別支援の導入でもあると解しましょう。)