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対理不尽の観点から二つの前提(過剰肯定過剰否定に対する同時肯定と同時否定)について考察

2022-2-002

人間という形式はじめ、自分が選んだわけでもないものが割り振られた事態に対して、
形式の選抜や運用がフェアの上で展開されてる時、形式に確からしい内実が与えられてると言える、この前提(批判点はフェアの欠如)に立つなら、

フェア志向でない(代替不可能な有限性に帰属してるケースでも納得しない)人が非難的反応をするのは、
自分が理由なく殴るのは良いけど他者はダメと言ってるパターン(自他を個々具体とする抽象次元を持たない実力段階の現れ)ですから、説得力がないように思います。


前提を、フェア(各場の疑似でない固有性に即した割り振りへの支持)とバッティングする単なる割り引かれ忌避、
つまり、場(内在場や外在場)の上に立ち上がってるものへの、場の疑似でない固有性に即しているいないとは関係ない、
もっと言うと、各場の疑似でない固有性への尊重とは関係ない肯定否定を内容とする自由観にすると、

非難するにせよしないにせよ、有限性の与件性への見て見ぬ振りという無理筋
(現実が持つ複雑さに通用してない)な否認によって可能になる過大な要求が基準になってる為、

知的言説をどれだけ駆使してようと、都合の悪さへの過剰否認(負わせるに値するだけの内実を持たない都合を、外界に押し付ける生き様)のごり押しに利用してる以上のものではない
(哲学関連すら、下で言ってる理解力の欠如、指針の欠如と相まって利用され、形骸化させられてきた)ように思います。



ところで、単なる割り引かれ忌避(効率への志向も、フェア志向が機能してない状態下のものなら含まれる)
を内在不問外在軽視と捉え直せば、過剰肯定過剰否定の同時持ち

(内実に含まれるいらぬ飛躍程度に関係なく、望ましい表層形である、望ましくない表層形でない、これらだけで満足するという、
表層次元に縛られてる状態、表層形に囚われてる状態なのに自由と言い張る形骸な解決観)
と言えますし、


フェア志向は、各場の疑似でない固有性に着目無視を合わせる具体化精度最大化に伴う捨象反応
(内面世界も場と見れば、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像に等しい)の側面も持つので

(肯定方向にも否定方向にも働くその捨象をもって囚われの除去とし、この除去状態での外界との関係を、自由と平等を個々具体とする抽象次元に据えるという、
価値基準を疑似化してない場に移譲する事を通して、負わせるに値するだけの内実を、対自己や対他者に持たせる処理の側面まであるので)、

後者前提と前者前提は、過剰肯定過剰否定の同時肯定と同時否定の関係と見なせます。


つまり、同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足を、いらぬ飛躍(通用の行き渡ってない選ぶに値しない状態)として、
文系的対象に見出すだけの理解力(より確からしいものが取って代わる運動性への阻害を、文系事象に関して最小化する要件)を持ってれば、

後者前提も(外在場の本質に合わせてるケースを、外在場に表層的要素込みで合わせてるケースと区別せずに吸収しつつ、軽視と不問を内外反転させてる姿が見られたら、上の不足を見出すだけなので)、
先の非難的反応も、選ばないはず


(例えば、冒頭の事態に対し、代替不可能な有限性に具体形を帰属させにいく事もなく、苦しんだり誤魔化してるだけの有り様、

及び、自身の有限性形態を表層形断罪してると言えるその有り様に溢れていて、
持ち出される解決像が、対常識などで上の理解力が発揮されて良いようなものである哲学水準ですら、表層形で肯定否定してるレベルであるせいで、対理不尽の通用性が低いままの世界は、


上の理解力を同種の他との共通要素の捨象能力からして育成しないし、その捨象能力と相補関係と言える、
特に、都合の悪さへの過剰否認という理系で言うところの精度十分な検証実験の結果を受け入れない様に相当する実力向上阻害を抑制する、フェア志向も育成しない、

同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化に不足がない事をもって肯定するという、
抽象化具体化の交互反復に拡張する事で、通用が行き渡ってる状態の維持と文系論理観歴史観とを形骸なく繋げるものでもある、指針も与えない、
既存の教育に責任が多分にあり、

既存の教育環境を保全してるも同然な人達は、少なくともこの観点から糾弾されて仕方ない)、


そう言えるように思われます。
(後者前提、あるいは、フェア志向への忌避を見かけたら、通用を行き渡らせる働き、通用の行き渡ってるものを選ぶ働きが上手く機能してない現れと捉えましょう。)

ご支援の程よろしくお願い致します。