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相対主義と絶対主義の二択(振り子込み)な知性や倫理を、実力不足の現れとして扱う事で、相対主義や絶対主義の弊害を権威付きでまき散らす事の可能な環境を変えましょう

2022-1-004

分かりやすいところで、空気を読む読まないの二択段階を実力不足、場の疑似でない固有性(代替不可能な外在事情)にのみ合わせるのを実力十分と見るなど、
知性や倫理が相対主義絶対主義を振り子してる文系者に対しては、どれだけ権威を振りかざしてようとも、
実力不足(持ってる抽象具体の関係構造が現実の持つ複雑さに通用してない)と見なしましょう。

彼らでも実力十分扱いを受ける事が可能な環境があるから、相対主義絶対主義の弊害を権威付きでまき散らされる事態にもなってる(まき散らす自分に対し修正する必要性を覚えてくれない)のに、


主体的勉強なり可能性拡大なりの推奨に至っては、各場の疑似化されてない固有性に即した割り振りへと寄せる
(それに伴う捨象をもって損得なり役回りなりへの過剰反応を抑える)方針を獲得してない者に対し、
疑似化された部分込みで場に合わせる過大特化(相対主義)と言える、既存環境を妄信した努力へと導く形になる為、

その方針(フェア志向)を、そうした推奨にさらされる前に自力で獲得できる人が少ない、
かつ、客観視と共に文理の両輪として小学期から育成する教育環境もない点と合わさる事により、
そうした環境を保全する働きをしてるわけで、実力観の刷新が必要と言えるからです。


ちなみに、相対主義も絶対主義も具体化精度の低さ(内在性質と統合させる外在性質の選抜ミス)の現れですから、保全されてるのは、

文系域での具体化精度が論点にならない状況(フェアな選抜が持つ選抜精度を、問題点把握や過大評価過小評価把握に求めてない以上、非を認めないのに責任を語れる等、修正作用が最大化されてないと言える状況)、
具体化精度の最大化を先立たせてない有り様への、文理の別を抽象化した否定がない状況と解せます。

(理系的局面では同種の他との差異要素の捨象次元の維持が要請されるのに、文系的局面では同種の他との共通要素の捨象次元の維持は要請されず、
何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの最大限化枠組みが文系域では不在である為、

与件である有限性の限定作用に伴う通用領域減に相当する、通用性喪失を限定作用の理由の代替不可能化でもって補い、通用が行き渡ってるという選ぶに値する状態へと持ってく話に、
理想と現実の関係に関してすらなってないのに、この状況が保全されてる。)


つまりは、精度の低い実験の結果を、精度の高い実験の結果と同等には扱わない(その配慮の下の具体化抽象化の交互反復として歴史を紡ぐ)という話と、
代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像(フェア志向が内包されてる)を、通用性が取りこぼされていない点をもって最善として扱い、また、そうでないものとの間に扱い差をつける
(近いほど信頼し、乖離してまで何かを獲得するのを精度の低い具体化による、そのフィードバック先の抽象次元込みで、通用性喪失と見る)という話とが、

同じ具体化精度の問題として取り扱われていないせいで生じてるのが、市場や民主制の採用なり、文章読解や表現鑑賞の教育なりで見られる、
反映されるされてる個々事情の、先の主体像からの乖離を問題視せず、乖離の修正形に寄せるルートを潰す実態主義(絶対主義の弊害を相対主義の弊害に差し替えてるだけ)であるし、


また、割り引かれへの過剰反応(引き受けざるを得ない有限性の範囲に抑える、いらぬ飛躍除去の内容になってない反応)を修正対象としない
(ある種の立場反転は、主流の宗教によって内実不問に近い形で前提化されてさえいる)世界、

その過剰性に振り回されてる状態に対して解放する(低通用状態を修正する)のでなく放置してるが故と言える、フェアを越えて自他を助ける救済行為
(内実の確からしさの欠如を、表層形の問題にすり替えてる帰属操作の現れ)に、疑問が持たれないレベルで倫理が不当獲得の道具と化してる、

当然、分捕りの正当化(内実の確からしさと無関係な肯定)もまかり通ってきた(事実上の泣き寝入り)世界であるわけです。


世界はこういう性質をしてるのだからこれはこうあるべきだ的なロジックを、特に、社会によって個人の有り様が規定される(割り引かれる)のを、
代替不可能な有限性に帰属してる規定かどうか(つまり、フェアな割り振られかどうか)と関係なく肯定否定してる言動(例えば、個人観の反映)も、

全体の性質は部分にとって場の性質なので、全体の性質とされてるものが本質的であるほど、その規定形は内実の確からしいものになるし、具体化精度の高い部分が多いほど、全体の性質は本質的なものになる、

この全体部分関係に関する像(全体から部分を切り出す系の描像では、全体が場に置かれる立場に回る)を、
抽象次元(林檎を数えるにとっての数を数える)として持ってない、実力不足の現れであり、保全に値しない知的環境を許してきた結果の産物と見なしましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。