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認識枠組みの形骸化放置の弊害例として、009に付記した内容


例えば、外側が常にあると言うだけでは、たとえそれが哲学的な見解(リバタリアンの根拠として持ち出すなど)であろうと、
表層的な理解に留まってる人の言と見なされて仕方ないと思います。


誰もがより通用領域の広い気がする方を、認識処理のレベルで常に選んでいて、つまり、より確からしいものが取って代わる運動性自体は前提で、

観点なり、主体の有り様なり、その運動性の受け皿(その運動性が置かれる場)におけるその運動性に対する阻害の程度が論点
(例えば、阻害のないケースだけから成ってるのなら、多様性が高くても低くても肯定される)であって、


受け皿に対してもその運動性を可能なだけ働かせてる、文系的局面の場合は、同種の他との共通要素の捨象に十分にさらしてるなら、
阻害が最小化されてる(具体化の精度が最大化されてる為、その運動性へのフィードバックは改悪でない、

つまり、その運動性が仮説と検証との間の関係のように抽象化具体化の交互反復という歴史性から成っていても自身たり得てるし、前提が前提たり得てる)ので肯定される、


この内実の確からしさ差異(この場合、受け皿の存在有り様が疑似性に、自身に帰属しないものを帰属してるかのように扱う形で振り回されてる、
という意味での低通用状態、不自由状態の程度差異を根拠にした肯定否定)に関する理解が、

抜け落ちてる近代的理解力(内実を確からしくする働きを持たない認識枠組み)の産物であると、

言い換えるなら、近代性によって話を矮小化してる事例(認識枠組みの形骸化放置の弊害の例)であると思うからです。


内実が確からしい状態を保存しつつの表層形変転という内容を、自身が展開するもの(思考なり生なり)、展開に関われるものに持たせる事ができない、
これを、通用が行き渡ってる状態(選ぶに値する状態)へと持ってく能力を、対文系で持ててない有り様と解し、
近代的理解力に留まってる事の弊害と位置付けましょう。

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