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6873文字、疑似問題の霧に覆われてきた文系空間(誤解された理解観の再生産サイクル込み)も、ニーチェの失敗を押さえる事で、乗り越えるのも可能でないか

2023-2-001

例えば、アンフェア場(どういう場であるかと場で影響持ってる差異とが整合的でない状況)での敗退は、主体の実力不足とは言い切れないわけで、

フェア志向(特に、局面と着目無視の合致の下での産物への受容に値するもの扱い)でない人は、
主体と場の責任分別が不正確である(帰属関係の受容根拠が、帰属の修正余地のなさになってない)為、
これが現実だ的ニュアンスの言動は単なる実態主義(表層次元のいらぬ飛躍除去での満足)に留まる

(これが自分だ的ニュアンスの言動も、そこの不正確さに加え、仮説への改悪フィードバックに相当する歴史が言える為、疑似像の受容強要であり、

同様に、他人や人間や世界に対する、あるいは、秩序なり規範なり否定なりの強弱に対する過大評価過小評価により、例えば、冤罪的非難の内面化故の過剰な攻撃性が生じてるのに、
本人的には知性や倫理や美意識が阻害なく働いてるつもり的事態も懸念される)、

つまり、理想現実関係の安易さ(特に、余裕があるのに量に走ったり、余裕がないのに質に走る、
量質の関係と局面とが合ってないメタ質欠如)がその人の為す対象理解に反映されてると言えます。



逆に言うと、何ら限定されてない状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの上限化枠組みに理想現実関係を落とし込んでる人には、
理想にも現実にもいらぬ振り回されがない生の一環として、具体化精度確保を欠いた言動に対する不採用が期待できるわけです。

(言葉の用い方もそうした生かどうかを論点としましょう。というか、主語の切り出しや修飾関係を含む主語述語関係を、その上限化枠組みで捉えましょう。)



ちなみに、対文系でのその枠組みには同種の他との共通要素捨象(存在するのと引き換えの要素を取り出す処理)が必要で、
個別性の本質のみを根拠にするか、本質扱いしたら疑似化と言える要素込みで根拠にするかに関わるその処理は、

空気を読む等の、場の表層に合わせてる事態を場の本質にのみ合わせる方向性でなく、場に(その本質込みで)合わさない方向性でもって修正するケースとも関わってる為、

個別性が根拠になる局面で同種の他との差異要素捨象を持ち出す不当合理は、
外在尊重としての存在尊重であるフェア志向と、内在不問外在軽視な典型自由観とのバッティング問題を埋没させる処理反応であり、



また、同局面での両捨象の否定(合理性への単なる反動反発)は、特殊性の過剰保障と見なせます。
(例えば、自分は傷付いたとか、誰かが傷付いたと言ってるとかが、そのまま根拠になるとの発想は実態主義であって、
仮説が勘違いである場合にその程度を抑えるという内実を持つ個別性は、内在不問外在軽視な典型自由観な生の現帰結でなく、代替不可能な内外事情にしか応じない生の現帰結の方なので、

前者的生の反映である感覚を、自分が自分である限り生じざるを得ないもの、存在するのと引き換えのものとして外界に扱わせるのは、
存在に帰属しない扱いを帰属するかのように持ってく帰属操作、かつ、存在の名の下での操作なのでその帰属操作の責任を存在に擦り付けてる形です。

同様に、方法的懐疑や現象学も、表層のいらぬ飛躍除去を根拠に内実のいらぬ飛躍の受容を誘導する、という実態主義の弊害構造の下で、存在と実存との間のその関係悪化を齎すものであり、

逆に、そうしたそこの悪化を防ぐ後者的生に必要なのが、したがって、帰属の修正余地のない状態へと持ってく働きとしての知性や倫理や美意識の機能不全を抑えてくれるのが、前者捨象と言えます。)



この不当合理と過剰特殊の関係の一つに、カントとニーチェに代表されるリベラルリバタリアン関係があるとして、

当然両者は、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像を、自由と見なす事なく、別の自由をもって埋没させるわけですから、
真理と認識の間の断絶に対して、その種の断絶に限らず、真善美との間の断絶がその主体像によるものである時、生じてる距離は最小化されてる
(理想に対する割り引きが条件上の最小となるような現実として実存がある)、

したがって、(認識か道徳かによらず)目指すべきはその主体像(の反映としての有限性形態、例えば、できる事できない事の有り様選抜)であり、
その主体像が目指されなかった過去は、知性や倫理や美意識が上限化されなかった過去でもある、という方向に話を進める余地はなかったはずです。


実際、認識は真理に至れないが道徳は理想に至れるし、手段目的枠組みで対人理念は語れるし、夏も冬も同じ格好する的外在軽視の点では典型自由観の外に出る必要はないとの説には、
外在個別性の軽視故に内面への改善フィードバックと整合的でなく、疑似化状態からの個別性のサルベージに閉じてるとの意味で、人格尊重が形骸化してる、という矛盾が言えると思いますが、

受容に値しない飛躍まで対象に負わせる主観を保存してる形なのに倫理を語るこの矛盾は、
いらぬ飛躍の有無(先の距離最小化)でなく、飛躍の有無(先の断絶自体)を問題にする典型的誤解によって、過剰特殊と不当合理の表層形反転関係に縛られてる知性や倫理や美意識の地平が、

普遍性概念の用い方に代表される、場の要請と関係ない個別性捨象によっていらぬ飛躍を含んだ個別性かどうかの差異を捨象してしまう処理に、疑問を持たない、という形で発現した結果と疑います。


同様に、道徳も至れないが現実は理想に代替可能で、現実の全面肯定にエリート像を見出せる説、
実存の内実を検討するが、認識論から存在論に立ち戻るに際して主体性は内実不問で廃棄されるし、質的救済と整合してない属性でもってエリートを語る量的救済発想な事例の内実不問性について否定しないで良い説、

これらも、具体化精度の確保を論点としてないせいで安易なものになってる理想現実関係の押し付けであり、
そこを論点としてない生、つまり、選抜もフィードバックによる修正も上限化させてない生の為に、
自身の持つ仮説群を、より確からしいものが取って代わる運動性に上手く乗せれてないのに、知性が阻害なく働いてるつもりな事態と捉え、

代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針を存在実質とした上で、あるいは、集積した上で、獲得喪失や非対等性有り様と整合させる方向をもって、
それらの修正像とする事で、別の修正ルートを辿った以降の実際の流れとも、対欲望であれ対文化であれ、決別しましょう。



他方、具体化精度の低いものも統合対象である(仮説への改悪フィードバックに相当する働きを潰せてない)点が、
ヘーゲル歴史観の最大の欠陥(理想現実関係が安易である主因)であるとして、
実際、抽象化具体化の不十分さが解消されてるポイントを繋げる歴史観であれば、

目的地に向かうというより、常に上限である事が問題になってる(場への具体化精度確保が変化の過不足を抑えてくれる)わけなので、
つまり、何ら限定されてない状態の準備とそれが現象するに際して引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの上限化による、限定前後での確からしさ保存が内実である為に、

目的地へのショートカット的な振る舞いが理論的にも否定されてる(逆に、ヘーゲル系歴史観は理論の時点で否定できてないと疑える)上に、
対過去でも対現在でも対未来でも、上のポイントからの乖離だけが問題になってる、

主体で言えば、先の主体像からの乖離部分は誰もが咎められるが、誰もがそこしか咎められない、
(持つ者は持つ者なりに、持たない者は持たない者なりに上限でありさえすれば良く、
先の主体像における対外在が、両上限の差異を、場の疑似でない固有性のみの反映にさせてる、つまり、場の尊重が非対等性への反応に先立ってる、)

という平等観(実存的自由を受容条件とする有り様も、手段目的枠組みでなく自己とすら場を通して繋がる主体間関係の理念も込み)、
および、内実が確からしい(帰属の修正余地がない)なら表層形によらず肯定される質的救済が、
そこには含まれてる(逆に、ヘーゲル系歴史観には含まれてない)わけです。


ところで、ニーチェは現実に対して全面肯定的なノリなわけですから、他の側面はヘーゲル歴史観と真逆だったとしても、
少なくとも、具体化精度確保の不在(抽象化具体化の精度上限化をもっての抽象具体価値対等の不在)の点では同じ欠陥を保存してると見なせますし、

ニーチェの主張と、先の実存的自由や実存的平等を内包する方向に対カントや対ヘーゲルを修正した像としての、

より確からしいものが取って代わる運動性(真善美もこの一側面)との間に生じる断絶が、
その運動性(無限性)を阻害なく取り込んだ帰結としての有限性形態によるものである時、

生じてる距離は最小である(有限者による無限者との関係改善としての信仰も、形骸化を最も縮減できてる、
知性や倫理や美意識も、有限の与件性と上の運動性から成る、帰属の修正余地のなさへと持ってく働きとして機能してる)、

という理解との間の差異(言わば、反動反発でできる事の限界に殉じた結果の、
フェアを欠いた知性や倫理や美意識の形骸性に相当する、通用してない部分を取り逃がす修正能力不全の意味での、上の運動性阻害)を押さえる事で、

ニーチェが排したものや取り込んだものについての過大評価過小評価(冒頭で見た対象理解)の抑制が可能になると思われます。



もちろん、その実存的自由は時間的に見れば、
自我(内在的問題解決スタイル)と文化(外在的問題解決スタイル)の間にも、
続けて、両者の構成物としての注力形式が具体化条件となる事で、無意識と意識の間(問題解決に関する注力前後関係)にも、
具体化精度確保、改善フィードバック、内在由来の疑似化の縮減という流れを持ち込んでる

(生命を、種や個体の行動原理へのフィードバックを持つものとして捉えれば、同じ構造が言える)形ですから、


内実不問なままの自我の始点化をはじめとする、分離処理(フェア志向とバッティングする典型自由観に整合的なそれ)の成功体験がベースにある地平に留まる限り、
もっと言うと、生きてる時代の近代性への相対化が希薄(論点ズレ含む)であるほど、

自我や欲望や生命や実存や主体や形式に、内実の確からしさを求めるのと同義なその自由や平等を内包する方向に進むのは難しいはずです。
(上で言う持ち込みは、自我と文化の対立構図の類を持ち出し、一方への代替可能物扱いなどの相対化をもって、個人なり劣位ポジションなりを内実が受容に値するかどうかと関係なく救済しにいくという、

非対等性への単なる増減操作との、あるいは、量的救済への哲学の利用との、決別でもあるはずです。)


一方で、理系ではガリレオ以降、同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消が、事実上論点になってるわけなので、

同種の他との共通要素捨象に十分さらされた個別性とそうでない個別性の内の後者を、あまねく開く対象として含めてしまうカントと、統合対象から除去しないヘーゲル、
という先に見た修正点に対する修正をそれぞれ、対捨象の有り様と対展開の有り様への、抽象化具体化の不十分さ解消の試み

(文系での論理展開に対しても歴史の流れに対しても、いらぬ飛躍の取り出し方は同じ、
つまり、過去や現在や未来に対する肯定否定の有り様は、その人の文系論理の実力を示してるように思われる)と捉え直せる以上、
ニーチェ時点であろうと、それら修正が不可能だったとまでは言えないはずです。


いずれにせよ、反動反発に殉じても修正能力不全から脱せない事例としてのニーチェ像は、
より確からしいものが取って代わる運動性を機能させてる理系と内実不問な問題解決傾向の産物に塗れた文系、
という受容に値する(帰属の修正余地がないと言える)為の要件を満たしているいないの関係から生じてる、

抽象化具体化の不十分さ解消を求めてる領域と求めてない領域(具体化精度確保を欠いた言動が通ってしまう、
もっと言うと、安易な理想現実関係の押し付けへの耐用を欠いた領域)の混合有り様と言える近代以降の世界を、

乗り越えるのに、表層形反転の次元に留まっていては解決しない事を、その徹底故に背理法よろしく示してくれた点で、知名度的な側面も含め、確たる足場になってくれるように思われます。


ただ、堅牢に見える、得る資格をあまねく開く量的救済に対しても、具体化精度確保の要求による質的救済への転換を本筋と見た時の次善の策ではあれ、
足を掛ける場所もない堅牢さを切り崩す、隠し切れない傷の形で疑念を残してくれた件について、

量的救済が哲学領域ですら先に見たように繰り返され、むしろ量的救済の為の相対化に利用される事さえある以上、生かせてこなかったのも事実なので、
上の足場を十分に生かす為にも、次の理解を押さえる必要があるのかもしれません。



対文系での具体化精度確保を育てない(代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針を存在実質とした上で、あるいは、集積した上で、
獲得喪失や非対等性有り様と整合させる自由平等観を、もちろん対政治経済でも、持たせない)為に、

理想を割り引く程度の過不足阻止が論点でない理解観(自他の理解に含まれる加工への態度)や対本筋(次善の策の取り扱い)、内面への改悪フィードバック、引き受ける必要ないものと引き受けるべきものとを選り分ける基準の受容に値しなさ、
これらを防げない教育(能力なり情報なり可能性なりの獲得への介入)と相まって、

上で言う混合具合が対文系概念に関し現れた類の弊害として、自由や平等をはじめ、文系空間が疑似問題の霧に覆われてきた。


次善の策との付き合い方と常識やパラダイムとの付き合い方は、特化の過不足阻止という同じ問題系なので、
メタ質を欠いてる人は、自身が置かれてる時空へのいらぬ振り回されや他の時空との非対等性の肥大化が、自由平等概念の射程に入ってないと言え、

常識やパラダイムと哲学との関係、および、理解や実力が対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像である点を踏まえると、
既存の教育と地平とが近い人は哲学の実力を欠いてると言えて、哲学の確からしい実力がベースにない文系空間
(対して、理系空間は数学の確からしい実力がベースにある)の原因になってる。


対真善美を上限化できてない(先の実存方針でない)人でも、上限化からの乖離を咎められる事もなく権威を振りかざせる、
社会等の有り様の過去や現在や未来に対する肯定否定も、抽象化具体化の不十分さ解消状態という、その時点での上限である為に受容に値する状態からの乖離とは無関係、

こうした意味でアンフェア場が野放しである(特に、上で見てきた対カントや対ヘーゲルでの修正が足りてない)為、
ドーピングによる金メダルをフェアに得られた金メダル並みに内実確からしさがあるかのごとく扱わせる的に、受容に値しないものまで負わされてきた
(哲学の実力欠く地平もその一つなので再生産サイクルが回ってる)との観点をもって、

負わせない負わされない方向に、自身と文系領域との関係を都度再構築する働き
(ニーチェが存在した上にその知名度から、対権威において足を掛ける場所がないとは言えない)をも、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存(獲得喪失の結果の有限性形態を選択する生)は持ってるはず。




注、

理解や実力を、対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像と捉えるとして、
その像は、井の中の蛙状態時の全体枠が広がっていくに伴うニュアンス変遷も含めれば、
厳密にはどこまでいってもあくまで仮説(理系の知見すら捉え直され得る)なので、
より確からしいものが取って代わる運動性に阻害がないかどうかが論点と言えます。

一方で、資質や環境によって注力に偏りが出てる有り様を有限性形態と見なすと、その運動性を有限性形態によって限定してる形にならざるを得ない為、
有限性形態がその運動性の帰結である場合、この有限性形態はその運動性にとっての阻害がない受け皿(現象条件)になってると見なす方向に、上の論点を捉え直す必要があると考えます。

そして、本文で見た、自我と文化、無意識と意識、これらを代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針に落とし込む処理
(この特化過不足阻止は、

哲学に責任があるとはいえ、理想現実関係が安易と言える歴史を紡いできた帰結としてこの個別性はあるのでないか、という批判的観点に関する能力を育てないせいで、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存の確保が他の確保に先立ってない有り様に、

本人のそれ含め疑問を持たない状態のまま社会に送り出す既存の教育と整合的でない為、
その人の対環境における特化過不足阻止に、対教育が含まれてないと機能しない)は、

有限性形態がその運動性の帰結と言える為の、
つまりは、理解や実力における対象に関するあくまで仮説でしかない像の不完全性が受容に値する(理解や実力が上限化されてる)と言える為の、必要条件であるとも考えます。

ご支援の程よろしくお願い致します。