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道徳教育も、社会や世界の現状の望ましい変更も、ある種の割り切りを内容とする、倫理の解放がまず必要ではないか(補足有り)

2020-6-007
哲学の意義に関するスレに強引に投稿しておきました:


コミットできるのは、もしくは、コミットすべきなのは、
ポジションや具体的有り様を割り振ってる原理に相当してる部分としての、場の性質を確からしくする事だけ、
そう割り切る方向に、倫理的な感覚をまず持ってく必要があるのではないかと疑います。
確からしくするのを妨げてる要素(特に近代性パラダイム)の掘り返しや相対化や乗り越えも、
その上で、あるいは並行してでないと効果的(原理抽出的)でないように思われるからです。

なので、Aな林檎もBな林檎も林檎は林檎だといった捨象処理(マニュアル対応や数字扱い含む)が妥当な局面と不当な局面を判断できるかどうか、
嘘をつくなり理想を割り引くなり提示を再構成するなりが、場との齟齬の解消という観点のみから評価されてるかどうか、
内面と局面(緊急性の高低含む)が上下つけずに同じ原理で取り扱われてるかどうか(感情と理性の関係に関わる)、

これらも、場に置かれる前と後の関係正常化という枠組み
(加工を、有限性の所与性から不可避としつつ、
何ら加工されてない状態の最大限追究込みで、場の代替不可能な固有性に紐付ける、
この抽象化具体化処理を、通用が行き渡ってる状態の保存の実質とする枠組み)に、
倫理的な感覚を落とし込めている(表層形の実質の有無と表層形への扱いとの乖離の阻止)いないの視座で、
まとめてしまう言わば、倫理の解放に、現状のあるべき変更の第一歩を見ましょう。

実際、経済や政治での個々事情の直接反映(市場や民主制)という制度的な話と個々事情のフェア化の話、
これらを先のコミットの文脈に置くといった準備の不在、
競争と協調のバランスも、競争の帰結や協調の形も、場と齟齬があるなら否定し修正が図られる状況の不在、
それらが、場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる(例、アンフェア除去な大会運営)能力を、
育てていたり(選抜処理の精度にも関わる)、管理者ポジションに要件として要求できる社会が、
目指されてない(その能力と近代的な権利観や素朴な救済観との整合性なさの問題視すらない)のに、
経済や政治を肯定否定してきたこれまでに対し、反省の必要さえ覚えない人を許してしまうのだと思います。

ここで、原理抽出的(表層要素に振り回されない)に生を展開する支援として、
知性教育(表層的な理解への対策教授)や倫理教育(表層的な扱い方扱われ方への対策教授)を捉え、
個々人の特性によらず(義務教育の段階)に強制する部分について考えると、
引き受ける自己特性の割り出し方の教授と、
自己特性を引き受ける事の意味するところが、置かれてる場がその場の性質に即して、自己の特性に対し、
割り振ったもの(ポジションや具体的有り様)の引き受け(損得によらない)をも含むように、
偶々その場ではそういう帰結になっただけ(他の場ではまた別)だと、場の責任として結果を割り切る事、
場での割り振り原理が場の代替不可能な固有性と一致するよう無理せず(理想を割り引く)働きかける事、
それら込みで持ってく介入、この二つが想像されます。

その二つは、内在場と外在場における、最大限に原理抽出した上でのその引き受けという内容であり、
つまりは、井の中の蛙状態(で為される原理特定)からの脱却支援で、教育はあるべきなのに、
いらぬ特化を避ける心性(資質や環境、内面や局面の表層要素拒絶)が、
重視されてるとは言えず(主体性自体はそこを保証しない)、
対象が真逆(差異と共通)な二つの捨象の使い分けと捨象に際する網羅志向、要は、局面の固有性把握、
これらの教授も十分でない現状、言い換えるなら、先の生展開支援としては形骸である事態に、
算数の文章問題や理科の実験では適切な次元設定(場に即した着目無視)が見られるという育成事実、
例えば、経済や政治での先の組み上げ能力や個々事情に関して自他に持つべき視線が欠如してるという実態、
この両者の間にある断絶の原因を見ましょう。

対内在や対外在の態度はそのまま、根拠の強弱(大した根拠なく対象を扱っているいない)に繋がるわけで、
その形骸事態の解消は、根拠(引き受けざるを得ないものの導出)への態度とは無関係に動機や意図をくむ、
動機や意図をその表層形で断罪までしてしまう水準から、道徳教育を解放するのにも必要なはずですし、
例えば、自己におけるモブ性への反感やマウントへの希求から、
(創作含め)目立つ成功者や何らかの点で派手な他者に魅かれたり(そうでない者を軽視したり)など、
誰に起きてもおかしくない上に、道徳教育の守備範囲か曖昧な問題も、
アンフェアの帰結としての表層形かどうか(場との齟齬の有無)を区別できるようにする事で、
表層部分に振り回される程度を縮小し、自他の受容(国と国のレベルも含む)における、
根拠への態度の評価と、無数にある場それぞれでの扱い(割り振り)の妥当性評価との、
併存へと繋げる事が可能になるはずです。



補足(や加筆の流れはtwitterに記載)

何かができるできない自体は、一桁の歳でも後半にもなれば大騒ぎする事になる上、
誰しも専門への注力や老いは避けられない為、終生付き合うものであり、
確からしい原理(生の基底)の下で事態(反応含む)が生じてるかどうかという、
内実の確からしさについて関われるだけ
(義務教育の段階から、フェアを越えては己込みで助けない割り切り含む、自己特性問題として働きかけてしまうべき)と言えます。

なので、歴史性(抽象と具体の行き来による確からしさの向上や確保)による特化自体は前提で、
抽象化と具体化の精度の問題(いらぬ特化の除去)があるだけとの態度、
つまり、精度を最大化させてたらそれ以上の事は無理という割り切りと、
精度最大化への志向を先立たせずに為されてる特性への肯定否定に対する実質の欠如扱い(確からしくないものを確からしいとする不当な扱い)をもって、
場に置かれる前と後の関係正常化枠組み(により可能となるフェア基底な生)に回収してしまいましょう。

また、自己の非の自覚が自他へのフェア化働きかけに繋がるルートの欠如の帰結としての、
(その欠如は当然、相手のアンフェアな願いまで黙認、支援する内実の似非反省の圧力への脆弱性生んでる)
過去に対するリアクションの歪みが、今世界で顕在化してると捉え、
フェア化働きかけを積極的に負う状況を齎すものとしての非の観念や働きかけの具体化の方法を、
生に取り込む枠組みとすべく、その枠組みと倫理的な感覚との合一を事態改善の本筋として捉える必要が、
今あるのではないかと疑います。

ご支援の程よろしくお願い致します。