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道徳への妄信か反動反発の二択しかないかのような振る舞いに、付き合わされる程度を最も抑えるだろう方向性について

2021-5-008

能力が有限である以上、認識にせよ飛躍自体は避けられないわけで、
確定的に思えるものも全体像の変動に伴うニュアンスの変遷は起きてると見るべきでしょうし、不確定なものも実際にどう扱うかは局面事情次第(確定的に扱うケースも出てくる)と言えます。

つまり、限定作用自体は常に在って、我々がしてるのは対内在であれ対外在であれ、限定形についての理想と現実のバランスだけであり、

限定作用を確からしいものに修正できてるつもり、しに行ってるつもりだけど実際はそうでない事態(浸透攻防の論点化による内実不問など)を、
(いらぬ飛躍の除去をもって限定のやむ得なさを確保する事により限定前後の通用量を保存する働き、それを阻害しない形で知性や倫理を持ち出し)抑えるという問題があるだけ

(肉体にしろ思考にしろ、より確からしいものが取って代わる運動性をある限定作用の下で展開させてるだけとも言えるので、
その抑制が効いてない、無意識的なもの含めた問題意識は疑似的枠組みに囚われてる状態)、
そう疑えると思います。



例えば、道徳について、そのマニュアル性を否定するのでも、

代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じてる有り様からのズレ、さらには、内在性質と外在性質を抽象物と具体化条件と見た最大精度の抽象化具体化の交互反復な歴史性からのズレの程度を、
社会(価値体系が帯びてる偏りの固有性)に対して、対個人でそうするのと同じように検討する、

マニュアル対応の意義を認めつつ、とはいえ、帰属を修正する働き(内実に関して通用の行き渡ってる割り振り原理、その阻害ない発現の帰結に持ってく働き)を損なってる以上、次善の策ではあるので、
局面上の要請に沿う持ち出しに限ってるか(例えば、次善の策に余裕の増減のような局面事情を無視して頼り続ける事で何かを得ているいないといった、
場の固有性に即した割り振り、つまり、いらぬ飛躍のない選抜の帰結かどうか)を検討する、


こうした反応を介してないなら、帰属を修正する働きとしての倫理を持ち合わせてるとは見なせない、

つまり、まだマニュアル対応に頼るべき実力段階(理系で言えば、低精度な実験の結果をフィードバックしてるなどで、持ってる抽象具体の関係構造が現実の持つ複雑さに通用してない段階)、
自己判断の正当性を主張すると実力不足なもののごり押しになってしまう段階にあると見なせるでしょうし、


近代性の外に出てない状態(分離への過大評価によって内実不問傾向が強化されてる枠組み、その産物に固執し続けてる形、
その産物を最早いらぬ特化で得た不当利得であると、説得可能な帰属を、つまり、限定受ける前後で通用量が保存されてる類の帰属を持たない利得であるとまだ認めてない様)では、

文系的局面での局面要請と捨象対象選定との不一致(同種の他との差異要素捨象アプローチで処理してしまう)から、固有な差異の取り出しにいらぬ上限を負ってる為、

そもそも、検討しようとしても事実上できない、つまり、道徳に対し負ってくべき部分負わなくて良い部分を上手く取り出せない上に、
否定部分に対し具体的反応を展開する際の、自身が引き受ける内在事情外在事情にも過不足が生じるという、

言わば、理想も現実も取り違えたままのバランス作業にならざるを得ない
(そうだとして、個々の有限性形態の規定にも関わる上の不一致をケアしない、理系的局面でのケアはあるけれど他の局面を侵犯する形で組み込まれてるこれまでの教育から見て、その被害者であると現状見なせる)
と想像されます。

ご支援の程よろしくお願い致します。