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2741文字、自己責任論(社会への不満封殺)系の位置づけについて、平等感覚や自由感覚の修正の仕方にも触れて

2024-3-001

自己責任論も自己と他者の上下論、自己と社会の上下論の一種ですが、例えば、社会有り様に不満を持つべきでない系の立場な人が天動説でなく地動説の方を認めてる場合、
リスクあるのに社会常識(パラダイム)の変更を試みた人達に丸投げ(むしろ足を引っ張る側)した結果に乗っかってる他力感や美味しいところを持っていく感が否めないと思うので、
近代科学やその延長線上にあるものを肯定する人はそれ系を採れないのでないかと疑います。


いずれにせよ、地動説を選ぶのは計算ミスの指摘と同様に、個別性が根拠にならない局面で主観等の個別性を根拠にする事なく、関係性を整合させる(通用を行き渡らせる)と、
これが選ばれるという、より確からしい観点選抜の話をしてるに過ぎませんから
(実際問題、整合対象の拡大に伴い運動方程式なり運動概念なりが再位置づけされたように、井の中の蛙的状態の緩和可能性に常に開いておく必要ある)、

場に置かれるものと場の性質との間の関係が、限定を受ける前状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
これらの上限化(修正余地なさという受容に値する為の条件を満たしてるので、その時点での解決状態)により近いのが地動説だ、

という主張として捉え直すと、余裕がある時は本筋を選抜し、余裕がない時は次善の策を選抜する有り様とバッティングするものではありません。
(感覚や記憶も加工物なので、それらに関するいらぬ加工かやむを得ない加工かの差異の論点化を埋没させるものに対し疑似解決や疑似問題として扱う態度とも整合的です。)



食べ物でありさえすれば良い的な成立自体の重視これ自体(成立の内実不問自体)が問題なのではなく、余裕の有無等の事情との不一致が問題であるとすると、
社会有り様(規模によらず)に対する妄信的態度も反動反発的態度も(もちろん、
経済活動の標準パラダイムには反動反発しながら、欧米文系の知性倫理美意識パラダイムは妄信する的な混合系も)、取り違えてない事情と一致してさえいれば問題ないわけで、


(局面事情との不一致に対する問題意識自体は、大騒ぎする子どもと見て見ぬ振りさせる大人という構図を就学前に経験していておかしくない以上、
反応を状況上自然な範囲に収める事による過小反応と過大反応の同時否定方針、

および、局面と着目無視との合致の下での振る舞いという囚われていなさを対他者に持ち込む平等方針や自己に求める自由方針の採用を通して、
小学期でも十分獲得可能であり、十代突入以降は年齢をその不在の言い訳にはできない、

例えば、着目する差異の取り違えという観点設定問題と言える点で同根なのに、ドーピングによる金メダル的な茶番選抜に寛容でありながら差別を非難したり多様性確保を訴える平等感覚の、
あるいは、硬軟具合を局面と結び付けないせいで場と齟齬のある秩序しか構築できず、環境のぬるさに依存するしかなくなってる自由感覚の言い訳にはできないと考えます)、


より確からしい観点選抜の話とバッティングするのは、そうした態度そのものでなく、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針を生きる道(この実存方針を生きる、

特に、この実存方針と情報や能力や可能性の獲得喪失有り様とを整合させる事で、
自身の有限性有り様に修正余地なさを持たせ、ひいては、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小にしてる、

したがって、大人なら大人なりに、子どもなら子どもなりに自身の上限と言えるものしか外界に負わせてない人達、
当然、余裕があるならあるなりの、ないならないなりの振る舞いの的確さが期待できる人達だけから成る社会への接近、

あるいは、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の体現のみが主体の負う責任である社会への接近)を潰す、
当然、内在場や外在場の性質に対するその場が存在するのと引き換えと言える要素のみの把握に失敗してる個別性取り違えを保存してしまう、
内在外在上下論(内在不問外在軽視な典型自由観込み)であると見なせるはずです。



もっと言うと、AにもBにも言える要素をAに固有の性質と見なされてるものから取り除く処理を重視してない既存の文系空間
(同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の十分なものを否定したり、不十分なものを肯定する、
つまり、個別性が根拠になる局面において修正余地のないものをあるものかにように、あるものをないものかのように扱う評価空間)や、

それと整合的な概念(例えば、個別性捨象な内容に矮小化されてるせいで局面の固有性に合わせる具体化処理とは言えず、したがって、加工の過不足除去を論点にしてるとも言えず、
茶番選抜な感情や暴走的な思考展開等の場と齟齬のある秩序Aを、理想を過剰に割り引く肥大化した現実という同Bへの振り替えでもって押さえつける処理に留まり、

硬軟を局面次第なスペクトルでなく二択で捉える地平の原因ともなる、次元設定自在性の持ち腐れな典型理性観)なり、
理論なり(を真に受けたり、その処理が働いてる場合とのズレを指摘しないまま権威付してまき散らす人)であると見なせるはずで、


主体の内在場や外在場で割り振り原理になってるものがその処理に十分さらされてないにもかかわらず、割り振り結果を肯定しないよう
(例えば、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映でない、したがって、修正余地なさを持たせてない観点の下での選抜、

という意味での茶番選抜が文系的文章の中に含まれてるのに、それを修正余地として取り出さない類の理解力で満足してしまう事のないよう)、
文系教育における知性倫理美意識の像(現状は、小学生でも理科の実験では必要な差異が取り出されるようセットアップを組む必要性を認めるのに、

文系者は感情選抜一つとっても茶番選抜を修正する必要性を認めないままで権威になれる)を、
上の処理の重視、および、局面の固有性と着目無視の設定との合致の重視がベースとなってる内容に再構成する必要があると認めましょう。


落ち度のなさ具合を扱い差異に反映させたいなら(もちろん、落ち度の有無差異を無視するのが場に適ってる場合は、
無視した扱いの方が場と齟齬のない秩序構築であり、引き受けざるを得ない限定条件の割り出しの上限化に近い方を選んでる形なので、
いらぬ劣勢を自他に負わされているいないの差異を無視するかしないかはより確からしい観点選抜の問題)、

場との齟齬のなさが人間形式の下で可能なだけ追求された秩序を修正余地なし、次元設定自在性を人間性と解した上で、
各場において価値があるとされてるものへの着目に実質を与える上の二つの重視の有無を、個人に対する扱いにも、文系空間に対する扱いにも反映させましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。