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イタい私の "Love in Two Languages" (前編)

米国での大学院一年目の私の自尊心はズタボロだった。

大学院に行く。日本にいた時は、考えてもみなかった。でも、米国で会った人たちの何人にも勧められた。私が優秀だからでなく、修士という学位が、日本の大卒のようなものだから。私程度の人も行くから。助手の仕事で、食べてもいけるから。

読む。書く。好きなことだけして暮らしていい2年間。詩を書き朗読していた私は、女性学という分野や、女性文学の世界に浸りたいと思い出した。偶然知り合った、詩人で大学教授という人に誘われるまま、そこに申し込んだ。在籍したのは、比較文学科。

すぐに疲弊した。自己嫌悪の毎日。

論理的な思考ができず、意見のひとつも言えず、まともな文章1ページ書くのに、信じられない時間がかかる。あるようなないような自信は、底まで落ちた。もう上がってこれないんじゃないかと思った。やめてしまってもおかしくなかった。

助手の仕事であてがわれた机の引き出しに、前任者のタバコがあった。喘息気味の私が、その箱に手をのばし、そのうち自分でも買うようになった。

最初の学期に、学部生に混じって、文学理論の授業をとった。その授業が、後にも先にも一番しんどかった。一週間に一冊、小説や文学理論についての論文を読む。1ページの感想を書いて出す。普通のノルマだ。

読むのも書くのも大変だった。それでも、なんとかページを埋めては出した。つたないのはともかく、内容の薄い文章。英語で、手紙以外の何も、まともに書いたことがない。しかたがないと言えばそうだが、そんな自分が、こんな所に来てしまっていることが、恥ずかしかった。

担当の教授の顔もまともに見られない気持ちで、私は毎週、1ページようようと書いた感想文を渡す。前の日に、英語が母国語の誰彼に、英語の添削をしてもらったものを。

学期も後半になった頃、そのクラスで、Love in Two Languages という本を読んだ。2つの言葉での愛。私は、その本が、タイトルからして、自己投影できる気がし、深く入り込んで読めた。もちろん、本がずいぶん短かったこともある。

今回は、言いたいことがムクムク湧き上がってくる気がした。でも、ムクムクは、なかなか書き言葉にならない。人に添削してもらうには、前日までに書きあげなくてはならない。でも、もう誰にも頼めなくなりそうだった。

やっと書き始める。書きたいことを箇条書きにする。それを文にしていく。ワープロは持っていたが、すべてを手で書いた。何回も。書き換えるたびに、最初の箇条書きが、少しずつ滑らかな文になった。できた、と満足した時、薄闇に朝日がのぞき、小鳥がさえずっていた。

ボールペンで清書して出したレポートは、次の週に戻ってきた。いつものチェックマークに、プラス記号がついていた。そして、手書きの文字で、短い言葉が。A deep reading. Thank you! (深い読みとり。ありがとう。)

私はその2年後に、学位をとって卒業した。

  


大学院をやめていてもおかしくなかったのに、そうしなかったのは、その先生のおかげだけではない。

比較文学科にいる院生は、私のような外国人学生だけでなく、誰もが、使いこなせる外国語を一つは持っている。もともとバイリンガルという人は少ない上、その人たちも入れて全員が、外国語を習って身につけた経験があった。私の英語のように、なんらかの努力や、情けない思いをして。

だからだろうか、同じ学科の学生は優しかった。助手の仕事をする大学院生のためのオフィスで話し、映画を見に行ったり、誰彼のうちに集まったりした。それぞれが、使える言語に応じて、他の学科の授業を受けに行くことが多かった。お互いの傷、特に英語学科での、外国人学生への冷たさなど、をなめあい、励ましあった。彼らのおかげで、私は卒業にもこぎつけ、その頃には、自信さえ身につけた。



でも、やめなかった一番の理由は、最初の学期で会った男のせい、いや、おかげだ。

つきあった期間は短かった。それでも、この人との関係があったから、私は、別のプログラムに入り直すとか、やめてしまうとかの選択肢を、早々と切り捨てた。つまり、男がいたので、やめなかったのだ。

出会ったのは、偶然。日本人だったので、声をかけられた。だいたい、属す学科のある建物が近かった。彼は哲学科の博士課程で、あとは論文を残すのみだった。ヨーロッパ出身で、2つの母国語を持ち、英語も流暢だった。西周や西田幾太郎の思想にふれた彼は、日本語を勉強していて、日本に留学したこともあった。

私が会った日は、日本からの友人が来ていた。その友だちの英語は、彼の日本語ほどでもなく、その彼の日本語よりは、私のほうが英語ができたので、私は3人での日英会話のつたない通訳のような形になり、いっしょにお茶を飲んだ。そして、電話番号を交換した。

その友人が日本に帰った後、彼から電話がかかってきた。彼のアパートを訪ね、映画に行き、いっしょに食事をし、そのうち、私は彼のところで夜を明かすようになった。


好きだったのかというと、その時も今も、わからない。きらいではなかったし、その関係に夢中にはなった。

彼は、人種の違う両親を持ち、誰かが「アラビアのロレンス」と呼ぶような容貌だった。頭もきれ、話もおもしろかった。なにより、その人が、私に興味を示し、深い関係を持ちたがった。

自尊心のかけらが、あるのかないのかもわからなかった頃。私はたぶん、すがったのだと思う。少女マンガみたいな関係に。ダメな、普通の容姿のヒロインが、マンガから抜け出てきたような人に、お前が好きだ、つきあおう、と言われて。



その人とは、次の学期が始まる前に別れた。

私は、後期から大学院を始めていたので、すぐ夏休みがきた。彼は自分の国にしばらく帰り、私は夏季クラスをとった。そして、戻ってきた彼と、2週間ほど、一緒に車で旅行した。

その旅行中に、関係は終わった。きらいではないが、お互いに、性的なものを含む魅力がなくなっていた。最後の日に二人で泣いて、きちんと別れた。

ただ、問題があった。前の学期にもりあがってしまった私たちは、新学期から一緒に住むアパートを借りていた。助手の給料しか収入がない私たちは、違約金を払うのが惜しく、次の住まいを探すのが面倒に思え、一緒に住んだ。

彼は、見た目が魅力的な上、話し上手で、彼と時間を過ごしたい女性は、いくらでもいた。何人にも会いに行くし、一人と言わず寝ていた。友人として同居している私たちは、お互いのそういうことも、隠すことはなかった。

しんどくなかったと言えば嘘だが、自分が彼と寝たいとは思わなかった。

彼は、東アジア人の女性に惹かれる人だった。自分でも、はっきりそう言った。エキゾチズムを感じる見た目に。小さくて華奢で、エロティックな肢体や繊細な顔立ちに。

そう、イエローフィーバー。

でも、それが、理性と感情の違いなんだろうな。私は、彼の好みの容姿とは、アジア人女性という以外、あてはまることがなかった。熱にうかされていた時は、彼にも、そんな条件は末端になってしまったのだろう。まあ、そういうものかも。誰かが好きな時は、アバタもエクボに見える。

私たちは、男と女の関係を別にして暮らすのに、よくもないが悪くもない相手だった。だが、だんだん私がすり減ってきた。


_____
ー> 後編につづく。



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