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映画「ミナリ」


「ミナリ」(2020年)、リー・アイザック・チョン監督作品。




移民の物語、と聞いていた。米国への、外国からの移民。でも、この映画では、もっと広い意味での、移住者のことだった。移動する地域としては狭くなる。国内での移動。場所替えとしての、移住。

映画の家族は、韓国から米国へ来た夫婦と、そこで生まれた子供たちだ。そこに、韓国から、子供らの祖母が加わる。生まれた国をあとにし、新天地での生活に賭ける。暮らしが楽になる確率は、自国にい続けるより高い。

80年代の、韓国からの移民の話は、それ以前の、日本からの、多くの移民や出稼ぎがいた時期を思い出させた。ヨーロッパの色々な国から、その頃の自国の状況や事情で、同じように米国へ渡った人たちのことも。わたしの連れ合いは、祖父母2組、4人全員を移民一世に持つ。農業や肉体労働の仕事をしてきた、彼の祖父母らにも、重なるところがある。

でも、国が変わること以上に焦点が当たっているのが、国内での、移住の方だ。映画が追うのは、今よりもっと不便な所に引っ越した家族の姿だ。

この家族はカリフォルニアから南部の州へ引っ越した。そこから話が始まる。父と母の会話でわかるとおり、カリフォルでも、生活はできていた。友人もいた。病気のむすこを連れて行ける病院も近くにあった。だから、母は、別の場所、それも、病院も近くにない所に、移り住むことに、今でも抵抗がある。

母の戸惑いや反対は、米国にいることではなく、病院や店といった便利さから、一転した生活をすることだ。カリフォルニアでなく、南部のアーカンソーにいること。病院まで、何時間もかかるような不便な場所で、耕されていない農作地に住むこと。

父は母の気持ちをわかってはいる。ここでは、友だちも知り合いも、つくりにくい。だいたい、人がいない。そのことを、いたわる言葉をかける。


2時間を超える映画「ミナリ」の中に、派手な場面や話の運びはない。感動的な場面でも、音楽も使われていないところも多い。それでも、長いと感じじなかった。

淡々と、思い出の語りのようにすすむ話。実際、この映画の監督の、家族の思い出をもとにしているらしい。

映画の中の父親。自分の土地を、荒れ地から農地に。大きな土地でなければ。開拓者になりたい父親の姿は、アメリカ的にうつる。


韓国人家族。アジア系アメリカ人。2つの国の名前や文化、言語。米国にやってくる移民。

今まで、映画で、こんな話があったとしたら、たぶん、「韓国人の」話として見られていたのだろうと思う。感動しても、韓国人の家族の葛藤、として見られた気がする。また、貧しさ、がすぐ連想されたり。ほかの人はどうでも、わたし自身がそう見てしまったような気がする。

でも、この映画では、主人公らが、韓国人であることは、いちばん大きな焦点になっていない。外国人であること、アジア系の人種であること、それらが障害で、それを乗り越える話、になっていない。

そこに、わたしは、いちばん感動していた。


米国を米国たらしめるものとしては、色々な集団や人物があげられるだろうが、その一つに、開拓者精神がある。

米国らしい開拓者精神を体現する作品は、「大草原の小さな家」という、ドラマとして有名な、小説がある。それは、開拓者として、土地土地に移り住む家族の物語だ。

「ミナリ」は、1980年代の「大草原の小さな家」だ。

その主人公らは、アジア人で、80年代に、たいていの人が持ったであろう「アメリカ人」のイメージではないだろう。でも、彼らの話が、普遍的な、米国に住む人、米国市民、の物語になっていること。それだけでも感慨深い。

その上、この映画は、アカデミー賞の候補にもなるほど、評判が高かった。見た人が、この映画の世界観を受け入れた。

マイノリティの登場人物が出たら、必ず理由がある。または、その葛藤自体が大きなテーマとして扱われる。それが、人種でもなんでも。というのが、ながく、定番の話の流れだった気がする。

だんだん、特に最近、その型にはまらない配役や設定が増えた。「ミナリ」を見て、ここまで来たかと思った。

もちろん、賞をとったのは、それでもやはり、マイノリティが出て、マイノリティの監督だったから、という面もあったりはするのだろうが。


「ミナリ」を見終わって、住んでいる国の空気か文化か、見えないものが、もっと居心地よく感じられた。それが、現実にどうかは別にして、そんなふうに思わせてくれた映画に感謝した。



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