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人生2度目の大学生

50歳を超えて芸大に入学した理由

2年前から大学の資料は取り寄せていた。書画コース、通信制大学、手のひら大学、それがキーワードだった。まず、1年目は悩んだ。書道は若いころ25年ほど習っていたが、同じだけのブランクがあった。今更私に書けるのか、学費を支払うだけの価値が今の私にあるのか、取り寄せた資料をめくりながら何度も思った。
そうこうしているうちにちょっと年上の夫氏が定年退職を迎えた。退職を迎えた日、晴れやかな顔で帰宅した。そして、翌日から、違う職場で楽しそうに働き始めた。家庭菜園もやるのだといろいろ揃え始め、とにかく軽やかな第二の人生を始めた。
私は18年前から自宅で仕事をする、今でいうリモートワークだ。特に定年退職はない。今まで、夫氏中心の日々だったが、そろそろ自分の時間を大切に生きるということも考えてもいいのではないかと。
そしてある日、夫氏にもう一度大学へ行きたいと言った。
夫氏は賛成してくれて、学生としての時間を優先するようにと言ってくれた。私の心はすでに決まっていたけれど、これで環境が整った。

実は、若いころ、4年制大学へ入学したものの、思っていた内容と違ったため、2年生満了とともに中退していた。中退したことに後悔はないけれど、最後までやりきれなかったということにずっとモヤモヤ感を抱えてきていた。

30代後半から、夫氏の立ち上げたスポーツ団体に15年ほど携わった。そのうち10年は代表として団体のトップだった。仕事以外の時間は、この団体にすべてをつぎ込んだと言っていいほど多忙だった。携わってすぐに、モンスターペアレントと言われる人たちの対応も始まった。詳しくは書かないがそれはそれは壮絶なものだった。人格否定や心の破壊行為は常だった。助けてくれる人たちも多くいて救われたけれど、最後の決定や直接言葉を交わすのは私だったので、しばらくすると私は壊れていった。
代表を交代してもらった後、私の中には何が残ったのか、そればかりを考えていた。残ったのは、強力な同志と恐ろしい心の空白だった。

そして病を得ることになる。いくつかの病院を回り、結果は出ず。最終的に小さなクリニックな優秀な医師によって病名はつけられた。
慢性疲労症候群。それが私の病だった。ステージは9つに分かれていて、一番悪いころはかなり悪いほうに傾いていた。私を支え続けたのは、心ある医師だった。

4年ほど前から病が好転し、日常生活はそれほど問題がなくなった。
ここから入学を決めるまでは助走期間だった。

夫氏の定年退職と第二の人生。私の第二の人生。なにもないと思っていた自分の手の中に、わずかに残っていた小さい欠片。それが、書道だった。
ドキドキしながら入学に必要な書類に記入し、前の大学の成績証明書を取り寄せた。小さい欠片が少しずつ輝いていった。

人生100年時代、私はまだ半分しか生きていない。残りの半分は、自分のために時間を使う。自己投資も許す限りやっていく。

私の人生後半は、光り輝くはずだ。
自分が何者なのか、いつか胸を張って言おう。


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