N個の世界が見れたなら(N≧2)
身近に小さな男の子がいれば、思わずクスッと笑ってしまうCM。
うちの5歳の息子もまあ、こんな感じかもしれない。(「僕塾行く」とはまだ言わないが)
小さな男の子の一例として「うちの5歳の息子」と言ってみたが、(以前は小さな男の子だった)自分自身も、それと大差ないなと思う。
子供の足で片道30分以上かかる、なーんにもない一本道の通学路を歩きながら、やっていたことと言えば、空想のなかで遊ぶことだったと思う。周りの大人からすれば、「子供ってへんな生き物だ」と映っていただろう。
でも、本人はいたって、そして、いつも真剣なんだ。
目の前の敵を倒すことや、悪者とのカーチェイスに勝つことや、ジャングル(雑木林)のなかを生き延びることに。
「小さな男の子の目に映っていた世界」が空想として片付けられて、「そんな世界をかつて見ていたことを懐かしんでいる今の自分の目に映っている今の世界」こそが紛れもない現実、というわけではない。どちらも現実なんだ(N≧2)。真実はいつもひとつ!ではない。
人事として、あるいは、育成というかたちで、他者と向き合うとき、「この人の目に映っている世界は、いったいどんな世界なんだろう」という問いを、常に思い出すようにしている。
「私が見てる世界」と「この人が見ている世界」との間には、正誤も優劣もない。ただただ、それぞれが、そこにある。ただそれだけ。
だけど、ついつい、そのことを忘れがちになる。
冒頭のCMで母親が(悪気なく)「狭いところに入りたがる」「高いところに登りたがる」「集中力がまるでない」「ポケットにはいつも砂が入っている」「人のものを勝手に食べる」「高いところから飛びたがる」「物を隠したがる」「ダンボールから出てこない」とこぼしたように、相手が見ている世界に対する想像力を欠いてしまう(N=1)。
「私」の想像力の欠如は、「あなた」との橋を絶つことにつながる。そんな断絶は、「私」も「あなた」も本来望んでいないはずだ。でも、不幸な断絶を、「私」から引き寄せてしまっていることがある。
想像「力」と呼んでしまうと、「難しい」「できない」という声がこぼれてしまうかもしれない。正確には、想像する「姿勢」、あるいは、想像する「意欲」なのだと思う。であれば、「私」自身の「決め」の問題だ。「想像できるか?」ではなく、「想像しよう」と「決める」こと。それが、「あなた」との橋になっていく。
自分とは違うN個(N≧2)の世界が見える人は、N人(N≧2)の他者との間に橋を架けられる。人事や育成を、他者と向き合う仕事だと定義するならば、相手が見ている世界を想像する「姿勢」や「意欲」というのは、何にも増して大切な様態なのだと思う。
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