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江戸時代の円周率3.16の謎にせまる! 番外編

3月14日は3.14ということで円周率のπの日として、江戸時代の円周率 3.16に合わせ3日連続で記事を書いてきました。

第一章 ・・・3.16の出処
第二章・・・和算家たちの円理の研究と和算ブーム
第三章・・・3.14から3.16への逆行

概要

番外編として、第一章の3.16の出処にて「なぜ、初期の和算家が円周率を3.16としたかの理由は不明である。」のところで、そろばんが関係しているのはないかと個人的な推測をしました。

1662年に今村知商の「竪亥録(じゅがいろく)」の注釈書である「竪亥録仮名抄」を出版した安藤有益は、「塵劫記」などに見られる日本最初の円周率3.16の起源が√10にあると証言しています。
その√10を円周率とした理由は何だったのかというところに着目して書いていきます。

円周率√10のルーツ

インドの数学の著書をもつ林隆夫氏は、古代インド数学の成果が日本に伝播したのではないかという仮説を立てています。
16世紀イエズス会はキリスト教をアジアに布教するための基地をインド西海岸のゴアに置いていました。後述する宣教師カルロ・スピノラが算術の本などを送ってくれるように頼んでいるのですが、当時ヨーロッパ から送られた本はインドのゴア経由で日本までまともに届かなかったそうです。
1578年来日したイエスズ会のアフォンソ・デ・ルセナ神父の書簡には「ポルトガルから日本に送られてくる本は、盗まれたりゴアで替えられたりして古くてあまり重要でない本がわれわれの許に送られる。日本で持っている本はゴアの文庫の屑であり、余りであり、その一部しかない」と残しています。
つまり、数学知識がヨーロッパから届かないときはインドの知識で代用された可能性があるということです。

当時のインドも数学の技術は高かったはずであるが、本として反映されていたかは別問題である。

カルロ・スピノラ

カルロ・スピノラはスペインのマドリッド生まれ(1564年)のイエズス会宣教師で1602年7月に38歳のときに来日している。

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上図は天正遣欧少年使節の概略行程であるが、航路が分かりやすいので掲載

スピノラは1584年12月23日にイエスズ会に入会、1587年にローマでグレゴリウス13世の改暦(1582年)を提案したクラウディウスの下で数学と天文学を3年間学ぶ。30歳で司祭になるまでミラノで教師の経験の後、1595年に日本へ向けリスボンを離れる。このときはアフリカ最南端の喜望峰に達する前に嵐のためブラジルに流され、サンサルバドル島で船の修理のために何ヶ月も手間取り、出帆すると海賊に捕らえられてイギリスに連行されるという事件に見舞われました。リスボンに戻り1599年3月末に改めてインドに出帆、夏頃にゴアに到着し1年後の4月にマカオに向けて出帆した。マカオでは船待ちのためにしばらく滞在し1602年7月にようやく長崎に上陸しました。日本語を学ぶために有馬に送られ、1年間ほど勉強して1603年末に都の伝道地区の1つ下京に派遣された。1603年(慶長8年)というのは徳川家康が将軍になり一時禁教の命令を弛めた布教黙認時代である。
1605年に京都天主堂の「アカデミア」で講義を開いている。

京都天主堂の「アカデミア」

スピノラは1605年から1611年までの8年間に京都天主堂の「アカデミア」で和算家たちに数学を教えている。
講義の内容はキリシタン禁止令後に書が焼かれてしまったが、 自らが学んだ数学書・天文書の内容を復元するものであったであろうと思われる。

1606年12月3日にイエスズ会ポルトガル管区補佐ジョバンニ・アルヴァレス宛に京都から発信した書簡がある。
「(布教のために)最も必要なことは日本人に尊敬されることです。私が数学を学んでから日本へやって来たのはよいことでした。当地に来る者はもし数学を知っていれば尊敬されることでしょう。一つ残念なことは本を持っていないことです。ミラノでの三年間に学んだノート類と共にイタリアから持ってきた本を失ってしまったので、さまざまな好奇心をそそるような事柄についてもう覚えていません。それらはこの日本人たちを驚嘆させることは必定です」と残している。前述したようにイエスズ会に算術の本などを送ってくれるように頼んでいる。

スピノラのその後であるが、慶長の禁教令に伴い1614年にキリシタンの国外追放を逃れ長崎に潜伏するが、1618年にスピノラは捕らえられて大村鈴田の牢に入れられた。1623年に長崎で火刑、 殉教している。

1615年頃に日本で最初に出版された算術書で著作不明の「算用記」は、スピノラの講義の内容が元になっているのではないかと推測されます。1622年の毛利重能の「割算書」の序文には、「割算は人類の最初の夫婦がこの上もなく甘い果物を二つに割ったことに始まる」と、旧約聖書のアダムとイブを思わせる記述がある。

スピノラの他にジョアン・ロドリゲスも和算家に影響をあたえたのではないかという説もある。なぜなら、ロドリゲスは15歳頃に来日しており日本語、中国語(漢文)に堪能で、中国の初等的な数学の知識をもっていたと思われるからである。ロドリゲスは1610年にマカオに追放され、マカオに残り「日本教会史」などの著作を残している。

京都が舞台でスピノラが出てくる小説があるので紹介します。

最後に

戦国末期まで日本には数学がなかったというのが歴史家の定説である。
鎌倉時代から室町時代までの約400余の間、数学の内容の進歩はほとんど見られませんでした。数学だけでなく、天文学、暦学が世襲制になったことが大きな原因と考えられています。室町幕府がすすめた対明貿易が、鎌倉時代以後沈滞していたわが国の算術に活力を与え、江戸時代に大きく発展する基盤を使りました。その一つが、そろばんが中国から伝えられたことです。

江戸時代になり、一時禁教の命令を弛めた布教黙認時代をついて、宣教師であるスピノラが和算家たちに算術を教えていたことが、江戸時代の数学が向上するキッカケとなったのは面白いですね。

参照

技術大国日本の数学の父 カルロ・スピノラ 荻野鐵人
数学史研究 二つの仮説  平山諦 − pdf
中国の数学と日本の数学 小松彦三郎 - pdf
和算入門(7) 円周率を求めて(2)









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