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江戸時代の円周率3.16の謎にせまる! 第二章

タイトル通り江戸時代は円周率に3.16が使用されていました。3.16に合わせ3日連続で記事を書いていきます。今回は2日目です。

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第一章 ・・・3.16の出処
第二章・・・和算家たちの円理の研究と算額ブーム
第三章・・・3.14から3.16への逆行

和算家たちの円理の研究

江戸初期から円を対象とした和算的研究である「円理」が始まります。
その最初のテーマの一つが円周率を数学的に計算することです。
円理の研究の先駆者として知られているのは今村知商村松茂清であった。
1639年に今村知商が出版した「堅亥録(じゅがいろく)」の円周率は3.162となっています。
1663年に村松茂清が出版した「算爼(さんそ)」において日本で初めて「円の内接多角形の周の長さを計算する方法」で最初は円に内接する正四角形、正八角形、正六十四角形の周の長さを計算して、やがて正32768角形にたどり着き、円周率 3.141592648777698869248と小数点以下21桁まで算出している。これは現代の値と小数第7位まで同じである。
1681年頃に関孝和が極限の考えを利用し円に内接する正131072角形の周長を計算し最終的に小数第11位までを採用したが、途中計算では小数点以下第16位まで正確に求めている。この計算値は関の死後1712年に刊行した「括要算法(かつようさんぽう)」に記されている。

1680年代に入ると円周率を3.16とする算術書はなくなり、江戸時代の3大和算書「塵劫記」「改算記」「算法闕疑抄」の増補改訂版では円周率は3.14に統一された。
関孝和の門下であった建部賢弘が1722年に出版した「綴術算経(ていじゅつさんけい)」では小数点以下42桁の円周率を求めています。建部賢弘の算出方法は現代版に表すと「円周率の平方の無限級数展開式」になるものでした。ちなみに同じ結果をレオンハルト・オイラーが得たのはその15年後のことになります。
参照:17.和算家たちの円周率 - イムジイのページ

1663年に村松茂清が円周率3.14が初めて導き出した後でも、円周率3.14とした算術書のいずれもが、先行者の円周率をそのまま引き継ぐことをせず、それぞれ独自の値を提出している。
この背景には当時の遺題継承運動に「他人の算法をうけつぐ」と共に「自己の算法を誇る」という性格があったためだという。

和算ブーム

江戸時代には庶民が数学が解けた喜びを「算額」という絵馬に託して神社に奉納した風習が数多くありました。そのうちに問題だけを書いた算額、解答を記した算額が現れます。
当時はたくさんの人が集まるのが神社仏閣で発表の場に見立てたのです。現代でいうとインターネットの掲示板に投稿するようなものかもしれない。
人々は家や道場に問題を持ち帰り、解答ができたらまた奉納にくるという習慣が繰り返したのです。こうして日本の数学は各地でレベルを上げていいきました。

和算ブームは、どのようにして発生したのでしょう。
発端は吉田光由が1627年に出版した「塵劫記(じんこうき)」です。
吉田は京都の貿易商人で土木事業家で文化人としても活躍した角倉了以(すみのくら りょうい)の一族で、経済的にも文化的にも恵まれていました。
最初に毛利重能に師事し、その後遠縁の角倉素庵から中国の程大位が1592年に出版した「算法統宗(さんぽうとうそう)」を学び、それを参考にして「塵劫記」を書きました。角倉一族はご朱印貿易をしており中国との関係が深かったため、中国の算書を手に入れることができたのでしょう。

「塵劫記」は大好評になったのは分かりやすい工夫をしたからです。
それまでの算術書には絵図が一つも入っていなかったので、分かりやすくて楽しい絵図もたくさん盛り込みます。例えば、そろばんによる計算の仕方も図解して、とても分かりやすく説明しました。その本をさらに良くしようと努力し、何回も書き改め話題を充実させ、たのしい算数の話題もたくさん載せたのです。
「塵劫記」という書名は、天龍寺の僧である玄光に命名してもらったものです。「塵劫」という漢字には、もともと「永劫(えいごう)=永遠の年代」という意味があります。この本はその思い通り、著者が死んだあとも、江戸時代を通じてベストセラーになりました。

遺題継承の始まり

こうして「塵劫記」が庶民たちに受入れられました。
この「塵劫記」に続け!とばかりに海賊本が溢れます。しかも、一部の海賊版は粗悪品(レベルは低い)ときてる。憤慨した吉田は1641年に立派な改訂版を作成、更に巻末に12問の「遺題」という挑戦状をつけた(解答はつけない)のです。
これは粗悪品を出す者への一種の警告でしたが、問題を提出されればそれを解く者が現れるのが数学の常で、これらの問題を実際に解いて印刷する者が現れました。さらにこれらの著者は自らも遺題を残し、ここに遺題承継の伝統が生じました。これは吉田自身がおそらく予想していなかった数学の展開でしたが、江戸時代の数学の驚異的な発展の契機となる状況になったのです。

江戸後期になると、和算ブームは都市から地方へ、上層階級から庶民へと広がっていきました。こうした動きに一役買ったのが「遊歴算家(ゆうれきさんか)」の方々です。彼らは全国を旅して回り、行く先々で和算家と問答を行いました。村に高名な和算家が訪れたと聞けば、土地の数学好きが列をなして教えを請い、臨時の数学塾が開講されたのです。全国津々浦々を旅する遊歴算家の活躍によって算額ブームは草の根の広がりを見せていきました。

江戸時代に和算ブームをもたらしたのは、遺題継承、算額奉納、遊歴算家という3つの要因となります。その上に江戸時代という太平な世、日本人の知的好奇心の強さがあったからでしょう。

第三章へ続く



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