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手に職をもたない

父が東京に来たので、一緒に夕食を食べた。

平日の7時すぎ、雑然とした東京駅の丸の内中央口で待ち合わせをした。最近僕は髪型を変えて、ちょっとメンズボブっぽい髪型にしているので、マスクをかけていると、父は僕に気がつかなかった。

息子に気づかないなんてことあるのかとちょっと思ったけれど、久々に会うとそうなるのかもしれない。さらに、父は正月以来会っていないと思っていたのだが、ゴールデンウィークの前にいちど帰っている。

記憶というのはなんとも曖昧なものだ。
 
東京駅近辺は意外と食事できるところが少ない。結局あちこちうろうろして、JPタワーの中にある居酒屋みたいなところで食べた。

僕と父は年齢が離れていて、父は70歳を超えているのだが、千葉の会社のコンサルのようなことをしているのでよく東京には来ている。最近のコロナの影響でしばらくは休止していたようだが、また再開したとのことだ。
 
しばらく仕事の話をしていたが、資格云々の話になったときに、資格なんか取るなと父は言った。そういえば、これはかなり昔から言っていたような気がする。

父にそうやって聞かされていたので、僕自身、資格には興味がなく、ほとんどなにも持っていない。高校生のときにとった、英検2級を持っているだけ。特にそれでなにか困った、ということもない。

特別な資格やスキルを持ったりしていると、人はそういう視点で見られるようになる。

例えば英語が異常にできると、「英語ができる人」という存在になってしまい、たしかに英語を活用する仕事は増えるだろうが、それだけの人になってしまう。

逆に言うと、人に使われる人になってしまうということだ。

手に職を持った人と言うのはプロフェッショナルと言う意味ではかっこいいし、自分で仕事をとってくることもできるのだが、同時に限界も自分で作ってしまうことになる。それが父の持論だった。
 
もし仕事上の何かで資格が必要になれば、部下にとらせろ、と父は言った。これは今まではあまり言わなかったかもしれない。

僕が社会人になってそれなり時間が経つから、初めて出てきた言葉なのかも。でもこの言葉からも、父の姿勢は一貫しているなと思った。
 
父はエンジニアだ。ちょっと前に、関心があったので「エンジニアリング」という言葉の意味を調べたことがあるのだが、エンジニアリングの本質は、技術と技術を組み合わせて問題を解決することにある。

技術というのは単なる道具だ。問題に対し、その問題を解決するためにはどういう技術を使えばいいか、その技術を有効に使うためにはどういう環境整えたらいいか、そういったことを構想して設計していくのがエンジニアリングだ。

そういう意味では、究極的には手に職を持たず、それらをどのように組み合わせていくかを考えることができる人が真のエンジニアだということになる。

僕は理系のエンジニアではないが、仕事では、さまざまな道具を組み合わせて、問題を解決するということをしている。父のマインドが少しは入ってるのかもしれない。
 
手に職を持て、というアナウンスは多いけれど、「手に職を持たない」という視点もまた大事なのではないだろうか。

あんまりそういうことを言う人はいないと思うのだけれど。

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