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小説に「設計図」は必要ですか?

小説などの物語を書いたことがある人なら、作品のプロットは立てたほうがいいのか、というのは考えたことがあるのではないかと思う。プロットとは、物語全体の筋書きのことで、いわば設計図のようなものだ。

本物の設計図と違うところは、必ず書く必要があるわけではない、というところだろう。また、決まった形式があるわけではないので、立てる人たちのあいだでもさまざまな流儀がある。

我流で小説を書いている人はプロットをあまり立てないようなイメージがあるが、実際のところはどうなのだろうか。小説の書き方を教えている学校などでは、授業としてそういったものの作り方を習うイメージもあるが、これも実際のところはよくわからない。

プロで活動している小説家はみんなプロットを立てているかというとそういうわけでもなく、プロットを立てないと表明している人はいる。例えばミステリー作家の宮部みゆきなどはそうだというのを何かで読んだことがある。また同じくミステリー作家の森博嗣もプロットを立てないとエッセイなどでよく触れている。

ミステリーなどは緻密にロジックを積み上げていくジャンルなので、綿密にプロットを立てることが一番重要な感じもするが、意外とそうでもないのだという。森博嗣によれば、プロットを立てるとストーリーに意外性がなくなり、書いていても面白くなくなる、というデメリットがあるらしい。宮部みゆきも大体同じような理由で立てないのだという。

森博嗣を敬愛している作家の西尾維新もそのような考えだと聞いたことがある。「思いついたことは、忘れないうちに作品に組み込む」のが流儀のようだ。

プロットを立てないのが多数派とまでは言わないが、プロットを立てないと表明している作家はそれなりの人数がいるらしい。もっとも、ライトノベルなどでは、まずプロットを立てて、それが企画として通ってから執筆をはじめるという例もあるようだが、それはどちらかというと「企画書」の色が強い。

僕は小説作品でいうと、過去に長編作品を3本、中編・短編を何本か書いたことがある。小説を書き始めたばかりの頃はどのようにして話を組み立てたらいいのかわからなかったので、プロットのようなものを作ったこともあったのだが、最近書き上げた小説はいずれもプロットなしである。

その時意識していたのは「本文主義」というか、筋書きをあらかじめ考えるのではなく、自分で書いた部分を何度も何度も読み返して、過去に自分が書いた文章の中からヒントを見出し、つなげていくというやり方だった。重要なことはすべて本文に書いてある、という考え方である。

このやり方だと矛盾が生じにくく、強引にストーリーを進めている感じが少なくなる。途中で自分が思いついたことをどんどん本文に入れることができるので、意外性も確保できる。

小説というのは、ちゃんとした筋書きのうえで作るのではなく、思いつきをどんどん実現していくほうがライブ感があって楽しいような気がする。

ここ2年ほど将棋を指しているが、将棋もちょっと似たようなところがある。最初に立てた構想というのは、相手によって妨害され、途中で瓦解することが多い。しかし最初に置いた何気ない駒が終盤になって生きてきて、それを使って勝負が決着したりする。そうなるとかなり気持ちがいい。

小説などの物語とも結構そんなところがある。最初に何気なく配置した人物や設定が終盤に輝きはじめ、物語全体が生き生きとしたものになる。そのライブ感を体験するために小説を書くのだとすれば、むしろプロットなどを立てない方が面白いかもしれない。

これまで何作か小説を書いてきた経験上、全体の7、8割を書き上げたあたりが一番つらい。物語を畳んで収拾をつけなければならないので、一番頭を使うところである。まあ、それも意思の頭脳ゲームのようなものだと思えば面白いかもしれないが。


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