「どう伝えるか?」を突き詰めると、「要らない部分を削ぎ落とす」という次元ではない世界に行き着く

noteで相互フォローしている「冠」さんが、興味深いことを記事に書かれていた。

彼はコーヒー専門店で、コーヒーを提供したり、コーヒー豆を販売する接客を生業としている。いわばコーヒーのプロなわけだが、客に対して説明する際、納得のできる説明ができずに苦労することがある、ということだ。

コーヒー豆のプレゼンをして、相手に買ってもらえたとしても、「こんな説明でいいのか?」と、なんともいえない後味の悪さが残る、と。満足して買ってもらえたので嬉しい、という感覚ではないようだ。また、詳細にプレゼンしているのに、全然相手に響いているような感じがしないこともある、と。

人は何を求めてコーヒー店に行くのだろうか? 僕がコーヒー店に行ってコーヒーを頼むのは、コーヒーを飲むのが目的だからではなく、その店で本を読んだり文章を書いたりするための席代としてである。しかし、コーヒー専門店にわざわざ行く人は、もちろん質の良いコーヒーを飲んだり、良い豆を買いたくて訪れるのだろう。

しかし、コーヒー豆に関する知識はネットや本などでも手に入る。店員に提供してほしい情報というのは、一体どういうものなのだろうか。

コーヒー豆を選ぶ行為は専門的で、やや想像しにくいので、おすすめの本を聞かれたときの対応について考えてみる。

自分であれば、まず、相手が普段どれぐらい本を読む人なのか、という情報が知りたい。まずは取っ掛かりとして、「本に対する関心度合い」や「読書の習慣があるかどうか」が知りたいのである。そのうえで、こういう本が合いそうだから読んでみては、というアドバイスをする。そういう事前情報がないと、あてずっぽうで当てることになり、なかなかマッチしないだろう。

僕は個人的にはジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」という本が好きなのだが、これは上下巻の大作である。これを読書習慣のない、文化人類学に関心のない人に読ませるのはかなり難しい。

普段本は読まないけれど、なんとなく小説が読んでみたい、という人におすすめなのが、灰谷健次郎の「太陽の子」である。

これは児童文学でありながら、非常に奥行きがあり、主人公の「ふうちゃん」は小学生なのだが、さまざまな年代の登場人物が関わり、読むたびに違う人の立場や心情がわかって理解が深まっていくという傑作である。

このように、相手のレベルによって何を勧めるかを変えると思う。普段どういうものを読んでいて、どういうものに関心があるか。最低でもこのぐらいは知りたい。そのうえで、どういうものをおすすめするか。

もし自分がコーヒー店の店員だったら、どういう風に接客をするだろうか。

たとえば、相手がどういうシチュエーションでそれを飲みたいのか、ということが知りたい。何時ぐらいに、誰と飲むか、こういう想定シチュエーションが与えられるだけでも、判断の足掛かりになるだろう。

たとえば、人と会ったときに、お茶菓子と一緒に飲みたいコーヒーだったらこれ、とか、忙しい朝に気合いを入れるために飲むコーヒー、など、自分なりにキャプションをつけてもいい。あるいは、話が盛り上がって、ちょっと冷めても酸味が気にならない豆、とか。そういうふうに、シチュエーションが与えられると、選びやすくなるかもしれない。



「エレベーター・ピッチ」という言葉がある。エレベーターに、たとえば社長などと偶然一緒に乗り合わせたとき、乗っている30秒ほどのあいだでプロジェクトをプレゼンする、というやつである。

ここでは、30秒という非常に短い時間なので、細部の細かいところまで伝えることは不可能である。もちろん大意を伝えるだけでは面白くなく、関心を持ってもらえないので、「いかに短いあいだで本質を伝え、かつ『引き』を作るか」という勝負になる。

スピーカーのセンスが問われるといってもいいだろう。

「大意を伝えるのがメインではない」点で一番高い完成度が要求されるのは、映画の予告編だと思う。

映画は莫大な費用をかけて制作されるので、予告編は非常に重要である。しかし、予告編は30秒、90秒などの時間が制約されているので、映画のすべてを説明することはできない。ごくわずかな時間で映画の魅力を圧縮し、「見てみたい」と思わせることが目的である。

最近でいうと、個人的には「シン・エヴァンゲリオン」の予告編が印象的だった。

この予告、90秒しかないのに、最初の「シン・エヴァンゲリオン」のタイトル表示だけで、「20秒」も使っている!(6秒から26秒まで)。製作費は発表はないものの、20億程度ではないか、という意見がある。

そんな重要の映画の予告に、タイトルの表示だけで20秒も……。あれもこれもと詰め込むのではなく、映画の「いいシーン」「かっこいいシーン」の大半を捨てて、タイトルだけを見せる。しかも、セリフもない。それが一番、ファンに訴求すると考えたのだろう。

「どう伝えるか?」を突き詰めると、「要らない部分を削ぎ落とす」という次元ではなく、こういう世界に行き着く。まだまだ深い部分があるのだろう。

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