無限に文章を書く

なんだかんだ、毎日文章を書いている。

僕はおそらく「無限に文章を書くことができる」と思っているのだけれど、いまのところは枯渇の兆しが見えないので、たぶん本当に無限に書けるのではないか、と思っている。石油などと同じで、どこかで枯渇を迎えることがあるのかもしれないけれど、もう何年も毎日文章を書いているので、そうそうのことでは大丈夫なのかな、と思う。

これは、僕が三日坊主をしにくい性格だということではなく、けっこう三日坊主で終わってしまう趣味も多い。しかし、こうやってブログに散文を書くという行為は性に合っているのか、無限に書き続けられるな、と思える。

「連続で何日更新した」みたいな指標も一応あるが、あまり意識することはない。いま、noteでは900日以上連続で投稿していて、そのうち連続1000日に届くのだろうけれど、息切れもしていないので、このまま書き抜けられるような気がしている。
 
文章を無限に書き続けられる根拠としては、かなり「飽きにくい趣味」だということが挙げられる。文章を書くという行動自体は同じだが、内容が毎日違うので、飽きない。

ブログに書くネタがない、ということを言う人がたまにいるけれど、固定の「ネタ」を意識すると、確かに書きづらいのかもしれない。たとえば、コーヒーについて何かを書いたら、次は同じことが書けないので、「コーヒーネタ」というひとつのネタを「消費」してしまう。

そうではなく、コーヒーのもつひとつの側面を、他の何かと結びつけて書いてみる。「ネタ」としてひとつの対象を限定するのではなく、自分の思考をベースに、発想を飛躍させて、横断的に書いてみるといいのでは、と思う。


 
僕の文章のネタは、過去に読んだ本や経験したこと、そのときどきの人生において考えたことなどが根底にある。

過去の記憶が自分の意識を形作っているわけだが、最近ネットで話題になっていることや、ニュースとして触れる情報に対し、自分の過去の記憶や経験に照らし合わせてみると、「こういう視点もありなのではないか」と新しい解釈が生まれる。それが思考となり、文章になっていくのだと思う。

あまり、その発生のメカニズムについて考えたことはないが、おそらくはそういうことだろう。一見すると無関係なもの同士が結びつくような感覚があり、それが面白いのではないかと思う。

「文章力」という抽象的な能力がある。僕はこの「文章力」の正体について、明確な答えを持たないが、「無限に文章が書ける能力」というのも、文章力の一種なのではないか、と考える。話のうまい人が永遠にしゃべっているのと同じで、日々の訓練によって、無限に散文が書ける能力を手にしたようだ。
 
これがなんの役に立つのかというとちょっと困るのだけれど、毎日やっていることなので、これがそのうち何か実を結ぶこともあるだろう。

飽きないコツは、そのとき自分が考えていること、面白いと思っていることについて書くことだと思う。だから、これを仕事にしようと思ったら、なかなか大変なことになる。

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