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グルメというのは、本質的に満たされない人

ブログを読んでいたら、面白い記事があった。ブログ主は、日本の高度経済成長のとき、世間はバブルで浮かれてみんな豪勢なメシを食べているときに、田舎の工場に出向して夜中に組み込みシステムのデバッグをするので支給された菓子パンを食べていた、というのだ。

当然何十年も前の話だけれど、いまだにそのことを覚えているらしい。別にそんなに食い意地が張っているわけではないけれど、何日も続けて菓子パンを食べていると飽きてくる、と。まあそりゃそうだろうな。

別にグルメでなくとも、「食べ物」に執着して、何年経ってもよく覚えている、ということはある。
 
いまは職業作家として有名な佐藤優の著作を、一時期よく読んでいた(いまでも読んでいるけど)。この人の作品は自伝も多い。デビュー作ももともとは自伝だ。外務省職員(官僚)だった氏が、国策捜査によって背任容疑で勾留された顛末を書いた「国家の罠」がなかなか凄まじい。

逮捕されたあと、東京拘置所に500日間以上勾留されるのだけれど、そのときの様子を書いた「獄中記」という本もある。

読んでみるとわかるのだけれど、勾留されている機会にいろいろと語学の勉強をしたりする中で、やっぱり食べ物の話が出てくる。差し入れで菓子パンを入手するのだけれど、ハンガー・ストライキを行うためにそれを食べずにとっておいたのが、それを食べる夢を見てしまい、とても焦った、と。

そのほかにも、拘置所での食べ物エピソードは多いが、外交官として一線で働いていた人が、ちょっとした食事の話とかで一喜一憂しているのがなんだか印象的だった。しかし、人間も動物だから、なんだかんだとメシというのは、生活をする上での最重要項目なのだろう。拘置所みたいな極限の状況だと、それが特に浮き彫りになるのかもしれない。


 
「自分の幸福度を最大化するメシ」ってどういうのだろうな、というのを考えた。自分の好きなものを好きなだけ食べていたら、必ず病気になってしまう。どれだけ好きなものでも、際限なく食べることによって幸福を逓減させてしまうなら、少し抑えたほうがいい、ということもいえる。

また、美味しいものを食べまくってある程度極めてしまうと、今度は自分を満足させることのできる食べ物が減ってしまい、逆に不幸を招くかもしれない。安い食材では満足できない身体になってしまう、というわけだ。
 
特別に美味しいものを食べたいわけでもなく、食べているものがまずいわけでもない状態は、かなりフラットではあるけれど、「ものを食べる」という行為から目を逸らしているような気もする。

僕は、奥さんとともに9月から夕食を抜く生活を続けているけれど、ある程度こういう生活をしたほうが食べ物もおいしく感じられるし、なにより夜になってから「明日は何食べようかな」と考えるのが楽しかったりするけれど(ただのセルフ飯テロ……)。


 
満たされないからこそ満たされた状態を想像して楽しくなる、そういうメカニズムも作用しているかもしれない。

ということは、「グルメ」を標榜する人は、基本的には「満たされない」人である、ということもまた、言えるだろう。

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