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地下一階、二階と伸びている

最近は難解な作品が多いが、ジブリの宮崎駿監督のつくる作品は、基本的に子どもでも楽しめる映画だ。あれだけのメガヒットを飛ばしてきた監督だけあって、どんな人でも楽しめるように作られている。子どもが見ても面白いし、大人が見ても面白い。

しかし、深読みしようと思えばいくらでも深読みすることができる。実際、岡田斗司夫をはじめとした評論家によれば「そんなことまで読み解くの!?」というぐらい深い考察がなされている。

もちろん、公式見解ではないのであくまで解釈のひとつにとどまるのだが、考察を広げられる、ということが作品の質になるのだろう。

それだけ作品の深読みができるのは、そもそも宮崎駿監督に「信用」があるからだろう、と思う。一見すると矛盾だったり、腑に落ちない部分があると、無名の監督なら「ミスでしょ」で終わってしまう。どんどん深い分析にまで発展していくことができるのが巨匠の巨匠たるゆえんである。

ひとえに、それは宮崎駿監督の教養の奥深さからくるのかもしれない。あの人ならここまで考えてものを作っているだろう、と。

そういった作品は「二階建て」などと表現されることがある。一階部分は誰もが見て楽しめるエンターテイメント。二階部分は、ディープに物語やバックグラウンドを考察する人が楽しめるエンターテイメント。

一階部分の「入りやすさ」が裾野となり、上級者でも二階部分はしっかり楽しめる。それが名作なんだろうな、と思う。

しかしそういったものを考えるとき、「一階・二階」と表現するよりは、「一階・地下一階」と言ったほうがしっくりくるかな、と思う。地上何階建てという構造だったら、作者が意図した階数まで存在しないが、地下にのびているのならば、作者自身がまだ気づいていない「地下二階・地下三階」があるような気がするからだ。作者自身も気がついていない地下室。

考察や評論を目にするとき、そもそもどのあたりの階数のことを論じているか、というのが結構大事であるように思う。例えば、素人の作った作品の批評をみると、こういう部分が入りにくいとか、わかりにくいとか、退屈だった、みたいな感じの評論が最初にくることが多い。

それはいわゆる一階部分の構成についてしか論じられていないように思う。本当はそういったわかりやすい一階だけの世界ではなくて、地下一階、地下二階、地下三階とあるのだから。

漫画だと「絵柄」というわかりやすいものがあるため、それで敬遠してしまったりするケースは多い。例えば「カイジ」で有名な福本先生はかなり特徴的な絵なので、それで敬遠してしまう、という人は多いだろう。しかし、エンターテイメントとして極上なので、これだけの人気を誇る、と。

漫画の絵柄は、一階の玄関の作りにたとえられるだろうか。個性的な玄関でも、いったん入ってしまえばしっかり楽しめる、と。

人間の性格や思考なども、それが何階部分かが焦点なのかを考えてみると面白いかもしれない。無愛想で、他人から嫌われているような人でも、それはあくまで一階部分の話であって、地下まで深く潜っていくと実はとんでもなく面白い人だったりして。そういうことはよくあると思う。

一方で、人は第一印象が一番正確にその人を表している、と感じるときもある。一階部分を見せているようで、実は地下室に通じている穴が開いている、ということだろうか。

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