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世界を「言葉」によって解釈できるか?

最近、人は「言葉で世界を解釈する」生き物なんだな、ということをよく痛感する。

仕事でいろいろと調べ物をして、それをプレゼン資料としてまとめたりすることがある。いろいろなデータを調べて分析するのだが、そこで出てくる「数字」や「事実」は、それ単体では意味をなさない。

たとえば、引っ張ってきたデータをそのままパワポの資料に貼り付けたところで、誰も説得することはできない。調べてきた「数字」や「事実」をどう解釈するか。その数字や事実をもって、どういう仮説を立証させ、分析をするか。それこそが重要なのであり、それがない資料に意味はなく、誰も動かすことはできない。

しかし、これは、世間一般的に言われていることと少し感覚的に反するのではないかと思う。世間では、よく「数字や事実が大事」というからだ。むしろ、「事実を主観的に解釈することはよくない」という意見もある。

しかし、たとえば血液検査の結果について考えてみると、その意味がわかる。血液検査をして、いろいろな数値が出たとしても、数値そのものをバンと提示されても、素人にはなんのことかわからない。

それぞれの数値はそもそも何を意味するのか、そして適正範囲はどれぐらいで、逸脱するとどういう弊害があるのか。要するに、自分の健康状態はどうなっているのか。そういったことを「解釈」しないと、何もわからないのだ。

そういう解釈をする存在として、医者が存在している。医者が必要なのは、そういった解釈を行う専門家が必要だからだ。

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先日、安倍晋三元総理が銃撃されるという衝撃的な事件が発生した。その日のうちに、事件をさまざまな人がコメントしていたけれど、この事件をどう解釈するかは人それぞれなんだなと思った。

野党をはじめとして、「民主主義への冒涜だ」「民主主義への弾圧に対しては断固として抵抗しなければならない」というふうにコメントしていたけれど、それは本当に正しい解釈なのか? とすぐに思った。容疑者は本当にそういうつもりで犯行に及んだのか?

容疑者の言葉をそのまま信じるのなら、政治的な信条での攻撃ではないということになってはいる。容疑者の意図と異なる解釈をしてしまうと、その後の対応も誤ってしまうだろう。

もし、今回の事件が、ある意味では社会の縮図だとするならば、これを「どう解釈するか」は非常に大きな問題であるような気がしている。それによって、対応も全く違うものになるだろう。

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世界を理解するためには言葉が必要で、言葉は事実の列挙ではない。歴史的な事件が起きたとき、その解釈はまた時代により移り変わっていくだろう。

人間のように、事実を抽象的に、「言葉」で捉えることに長けた生き物は、そもそも、「ありのままに」事実を捉えることができなくなってしまったのかもしれない。


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