見出し画像

センスは身につけられるのか?

文学フリマで購入した「あやめし」さんの本に収録されていた下記の記事を読んでいて、少し感じたことを書いてみる。

「センス」についての話である。「センス」の良しあしについて考察されている。センスがいい人は、なぜセンスがいいのだろう、とか、センスをよくするにはどうしたらいいのだろう、ということについてである。

記事では、センスの良さは天性のものではなく、「それについてどれだけ努力してきたか」ということなのでは、という考察をしている。少しそれについて考えてみたい。

僕は、センスは天性の要素もあると思っている。それだけではないが、確実に天性の要素はある。スポーツができる子、絵がうまい子などは、最初から非凡さを感じることが多い。もちろん後天的に身に着けられる能力もあるが、センスがある人は最初から秀でている。

つまり、「天性のものかどうか」というのは問題の焦点ではなく、単なる結果論ではないかと推測できる。

僕は、センスとは、「感覚的に正解を選び取る力」なのではないかと思っている。論理によってではなく、瞬間的に正解がわかってしまう。サッカーのドリブルや、野球のピッチング、絵の描き方などは、ある程度は言語化することができるが、多くは感覚によるだろう。最初からなぜかその感覚を習得している、あるいは吸収の速度が異常に速い人がいるのだ。

そういった感覚がない場合、練習して最適解を身につける必要がある。そうして獲得した能力は、いわゆる「感覚的な知識」で、言語化が難しいため、本人でも自分でどうやっているかわからない。この能力は、論理的に結論を導き出す能力とは対になっているものだと思う。

論理的に物事の正解を導き出すルートの場合、感覚で選んだものと比較してかなり遅くなるが、言語化できるので普遍性があり、他人と共有することもできる。

天才肌のコーチやインストラクターがしばしば感覚的に、擬音語で指導をしたりする。その人は感覚で能力を獲得したので、言語で指導することはできないのだ。「同じことをやって、同じ感覚を持て」ということと同義である。しかし、センスのない人が同じ感覚をもつというのはなかなか難しい。

一方で、「センスがない人」が、センスのいい人の「センスのよさ」を感じることができるジャンルもある。ファッションセンスなどはその代表だろう。街を歩いていて、ファッションセンスに優れた人の服装は、ファッションセンスのない人でも「いいな」と感じることができる。絵画や音楽でも似たことが言える。これは結構不思議である。

しかし、それはあくまでも「素人にでもわかる程度のもの」にすぎないのかもしれない。たとえば、僕は陶器には全く詳しくないので、人間国宝の人が作った陶器と、そのへんの名人が作った陶器の良しあしはおそらくわからない。ファッションについても、トップデザイナーがファッションショーで披露するようなものの良しあしはわからない。

もっというと、音楽を長いことやっているけれど、ストラディバリウスのバイオリンとほかのバイオリンの音色の違いも聞き分けられないだろう。つまり、「センスの良し悪し」といっても、ある程度以上のレベルになると素人にはわからなくなる、ということだ。

センスというのは、天性のものと経験則に基づく、動物的な感覚なんだろうな、という感じはする。なんとなくこっちに行ったらヤバそうだ、みたいな「予感」という感じだろうか。僕は将棋をはじめて一年以上経つが、なんとなく「こういう状況になったらヤバイな」という感覚がついてきた。なんせ、1000回近く負けているので、「死ぬパターン」が経験的につかめてきているのだ。

就職活動の面接で、「ドアから入った瞬間に合否が決まる」みたいな都市伝説があるが、きっと大企業の人事担当は、それまでの経験から、「こういうやつはダメだな」という感覚がつかめているのだろう。

論理だけで人は動いているわけではない。いろんな経験を積んで、感覚を研ぎ澄ませることは大事なことである。

センスが生きる場面というのは「スピードを求められる場面」だと思う。時間をたくさんかけていいなら、理詰めでやっていく方法もかなり有効だ。スポーツや音楽など、その場でのアドリブ的な要素が求められるものはセンスが重要だが、絵や小説など、時間をたくさんかけてもいいものであれば、理詰めで時間をかけて捻出するやり方も有効だ。

しかし、そうやって長い時間をかけて練りこまれた作品は、もはや「センスがいい」という領域を飛び越えてしまうように思う。夢野久作の「ドグラ・マグラ」も、もとはふつうの中編小説だったのが、何十年も作者によって推敲と魔改造を経た結果、奇書に仕上がってしまった、ということもある。

他人からたんに「いいセンスだね」と思われるぐらいのレベルであれば、後天的なもので十分に足りるだろう。多くは「いいセンス」とされるものの模倣で十分である。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。