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そのうち、ヒトは「珍しくて、役に立たないもの」を他人に贈るようになるのだろうか

最近、「贈りもの」に少し関心がある。

人間の根本的な欲求はいくつもあり、そのことごとくがビジネスになっているが、「他人に何か贈り物をしたい」というのも人間に備わった基本的な欲求であり、それをあからさまにビジネスのネタにしている人もいれば、間接的にネタにしている人もいる。少しそれについて考えてみたい。
 
「モノを贈る」という行為は、非常に人間的なものであり、高度に発達した文明でしか成立しなさそうなイメージがあるが、実際にはかなり原始的な社会でも多くみられるらしい。

都市化された文化はむしろ金銭の授受を介在するやり取りのほうが多く、田舎ほど、贈与による「貸し借り」を重んじるウェットな関係性を好む傾向にあるようだ。


 
贈りものをビジネスとして展開している会社は、どのようなものがあるのだろうか。たとえば、カタログギフトを作っている会社などがあるだろうか。

しかし、表向きはギフトなどを謳っていない会社でも、ギフトをたくさん作っている場合はある。とらやのようかんなどは、個人的に買って食べるのが好きな人ももちろんいるだろうが、贈答用(手土産用)として消費されるケースが多そうだ。

あと、花屋とか、ケーキ屋とかでもそういうのは言えそうである。そういう潜在的な「贈与用途」を集計すると、実はとんでもない経済規模なんじゃないか、というような気もする。
 
最近、「ソーシャルギフト」という市場が伸びているらしい。SNSなどで、住所を知らない相手に対しても、プレゼントを贈ることができるというものだ。

Twitterなどで知り合った人たちは、住所どころか名前も知らない、というケースが多いが、そういう人に対してもプレゼントが贈れる、というのはなかなか画期的だ。Amazonの「欲しいものリストを公開」するのも、そういう需要を満たすものだろう。

ソーシャルギフト市場で有名なものとしてgifteeというサービスがあり、カジュアルなギフト需要を満たすということで、利用してみたことがある。

「人にものを贈る」という行為は、金銭以上に「人とのつながり」を生むので、すごいな、と思ったことがある。


 
あらゆるものが低価格で手に入る現代において、本当に価値があるのは「高い機能をもつもの」ではなく、「人があまり持っていないもの=希少価値が高いもの」ということになるのでは、と思う。

その場合、機能というよりは、その希少価値を他人と共有したいという欲求が生まれ、他人に贈ることで、より価値が見いだされていくのではないだろうか。

モノに対する欲求は、機能が満たされればそこで終わるが、対ヒトの場合は、終わりがない。完全に機能が満たされた社会が実現したとき、人は「珍しくて、役に立たないもの」を他人に贈ることを楽しみに生きていくのだろうか。

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