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誰が責任を取るんですか?

「まず牛を球とします」という、ちょっと変わったタイトルの短編小説集を読んだ。

ジャンルとしてはSFになるのだろうか。あまり馴染みのない作家なのだが、なかなかパンチの効いたお話である。

おかしな設定のSF作品集なのだけれど、設定のおかしさが、そのまま現代社会を風刺しているおかしさなので、それが面白い。いろんな作品があるのだが、なかでも、「東京都交通安全責任課」という話が面白かった。

どういう話なのかと言うと、東京都庁の中に、「交通安全責任課」という部署がある、という設定である(もちろん、小説の話なので、現実にはない)。どういうことをやる部署なのかというと、東京で交通事故が起きたとき、「責任を取る」のが仕事なのだそうだ。

「責任を取る」というのは、具体的には「辞任する」ということである。通常の業務はほぼ無し。つまり、普段は何も仕事をしないのだが、それぞれ課員に担当の車が割り当てられ(主人公は一万台)、交通事故が起きたとき、「責任を取って辞任」するのである。辞任をするのが仕事。なんだか一休さんのとんちのような世界観である。

舞台設定が近未来で、今よりもテクノロジが進んでいる。車は自動運転で走るのが当たり前になり、そもそも事故がほとんど起きないのだが、ごくまれに交通事故は起きる。

しかし、事故が起きても「自動運転」だからハンドルを握るドライバーはいないし、メーカーすらも無人化が進んで、責任の所在が曖昧になっている、という設定である。

今の時代だと当然ながら人が運転してるわけだから、交通事故が起きれば、そのドライバーが当然に責任を負うことになるのだけれど、近い将来、自動運転化が進めば、ドライバーが責任を負うことがなくなってしまう。であれば、誰が責任をとるのかというとこれはメーカーになるわけだが、例えばAIが設計したモデルなんかだとしたら、メーカーさえも責任をとれなくなるかもしれない。そうなると、誰が責任をとるんだ、という話になる。

責任の所在が不明になり、どうしようもないので、役所が引き受け、専門の部署がある、と。まあ、そういう話である。現実世界でも、大企業のトップとか、首相とか、そういう役割の人がときどき居たりするけれど。

これはSFなのだが、しかし、自動運転が一般的になっていったときに、「責任の所在」は果たしてどうなるのかというのは、確かに興味深いテーマではある。

マクロ的な考え方でいうと、そもそも責任を取る必要があるのか、という結論に至るような気がする。テクノロジが十分に発達すると、もはやあらゆる活動の主体はヒトではなくなるのだから、責任うんぬんではなく、保険のようなもので、なんとか補填していく、という考え方が自然であるような気がする。

自動車のハンドルを握っていたから責任を取る必要があるというのは、ハンドルを握ることによって、その人の自由意志でインシデントが起きた、ということを意味する。当然、ハンドルの切り方が間違っていたら、人が死ぬことになる。だからハンドルを切った人が責任を取る。これは当然のロジックである。

しかしそもそも誰もハンドルを握らないような社会になった場合、一体誰が責任を取るのだろうか。責任の所在がわからないと言われ、誰も責任が取りようがないのだから、責任などないと言うことになる。それこそとんちのような話である。

すでに現代社会と言うのは、システムが隅々まではりめぐらされていて、たとえ総理大臣であっても自由に行動することができず、ある意味では、ハンドルなんてまともに握れていないのだから、実はけっこうその状況に近づいているともいえる。

昔は全てがマニュアルで、「誰か」に明確に要因があり、その人に責任をとらせることができたのだろう。フランス革命あたりがその最たるものだろうか。

太古の昔は、ヒトが責任をとるのではなく、「神」が責任をとっていたらしい。「神」が世の中を治めるのではなく、ヒトが世の中を治めるようになったのだから、ヒトに責任が寄るのは当然のことだ。が、現代はヒトではなく、システムが世の中を治めはじめており、責任の所在はすでにあいまいである。

将来的には、責任をとるだけのヒトが出てきたとしても、まあ不思議ではないような気がする。あらゆる組織の「トップ」は、責任をとるためだけの仕事になったりして。


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