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「発想」のために知識は必要ですか?

最近、何度か書いているように、新規事業のアイデアを日々考えている。

ちゃんと考えれば、何も思いつかないということは基本的にない。いまは質より量ということで、どんなにくだらないアイデアでも、とにかく量を出すことを意識している。毎日、帰りの電車の中でやっているのだが、一日最低2個、多いときは7・8個ぐらい思いつく。まあ、これは習慣だな、と。

やっていて思うのは、簡単にできそうなものはすでに誰かがやっていることで、なかなかできそうにないことはまだあまりやっている人がいなさそうだな、ということだ。こうして書いてみると当たり前のことではあるのだが。

たとえば、書店をどうやって盛り上げるか、みたいなことを考えると、すでにそういうのあるよな、というようなものが多い。たとえばコーヒーが飲める本屋とか、コンセプトが明確になっている本屋とか。本屋という業態は決まったハードがなく、カスタマイズがしやすいので、ひと通りのアイデアは既に試されていると言っていいだろう。

しかし、たとえば新しい家電など、専門知識がないとどうやって実現したらいいのかさえ全く検討がつかないジャンルもある。エンジニアリング的な発想が必要なものは、ある程度の下地がないと無理だろう。そもそもの発想の起点として「技術」がないといけない。

しかし、技術が必要なことでも、本当に発想段階で必要なんだろうか、と思った。新しい家電などでも、本当に細かい技術的なことを理解していないと発想できないものだろうか。それを使うのは結局「人」なのだから、発想すること自体はできるのではないか、と思ったのだ。

電車の中で考えているので、簡単に調べ物もできない。だが、この環境がかえっていいのかな、とも思える。何か調べ物ができる環境だと、結局調べることに気が割かれてしまって、自分の頭で考えることができなくなるだろう。

何も調べ物をせず、自分の体験を思い出し、擬似体験して、とりあえず課題を解決するアイデアを書いてみる、というのが大事だな、と思う。何か調べものが必要であれば、とりあえず自分で発想してからやればいい。

考えてみれば、自分のnoteの執筆もだいたいそんな感じだな、と思う。インターネットで調べられる範囲だけのリサーチで書かれた本を「こたつ記事」と呼んだりするが、なんの情報も参照せずに、自分の頭の中だけで考えたことはこたつ記事というのだろうか。

こたつ記事というのはこたつの中で調べたことを書くのだと思うが、電車の中でこたつで調べ物さえしないものはどうなのか。しかし、自分が書く記事はだいたいそんな感じである。

自分の頭の中ってどうなっているのかな、とときどき考える。もちろん一人の人間なので、知っていることは限られている。しかし、いま自分が認識している世界は自分にとっての世界のすべてなわけで、それは自分の記憶から作られるはず。意外と、深掘りしてみるとすごい宇宙が広がっているのかも、と。

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