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道具を使うことと、その代償

将棋の勉強方法として、詰将棋を毎日解いている。二ヶ月ほど前までは三手詰めを中心に解いていた。三手詰めというのは、こちらが駒を動かして王手をかけ、相手がなにがしか動いて、さらにもう一手こちらが駒を動かして王を詰めあげる、というやつである。

シンプルなものだとこういうやつ

三手詰めとはいえ、よくできた問題は非常に難しく、二分ぐらい考えても解けないことがある。しかし、繰り返し解くうちに、できるようになってくる。最近は少しレベルアップして、五手詰めを解いている。

三手詰めを解き始めた頃、駒を脳内で動かすことができず、ひどく苦労した。

解答を見れば当然答えはわかるのだが、将棋というのは一手ごとに選択肢が分岐していく。解答の手順は1つではなく、複数ある場合があるのだ。初手はひとつに限定されていたとしても、その後の動きが複数ある場合がある。「相手がこう動いたとき、どう詰ませるのか?」がわからず、自分の脳ではそれを考えるのが限界で、考えていると頭が痛くなった。

詰将棋の問題集は紙の本で持っているのだが、上記の理由で、紙の本だけでやっていくのは限界を感じた。そこで工夫して、いま自分が使っている将棋ソフトに問題を入力して、パソコンの画面上で動かせるようにした。

もちろん、解くときは頭の中で解くのだが、解いたあとの検証は、ソフト上で駒を動かして検証できるようにしたのだ。

これはかなり便利で、どうやって詰ませるのか、すぐに検証できるようになった。おかげで、詰将棋を解くのが楽しくなった。

しかし最近、このやり方はやっぱり駄目じゃないか? と気づいた。確かにソフトを使って検証すると便利なのだが、肝心の将棋が強くなっていないのである。

「解決しづらい課題に対して、ソフトという道具を使う」というソリューションを編み出してしまったのだが、こと「将棋に強くなる」という目的においては、悪手だったようだ。大変でも、全部自分の脳内でやりきることが必要だったのである。

ということで、長らくソフトを使って詰将棋の検証を行ってきたものの、ソフトの使用をやめ、ちゃんと頭の中で検証まで行うようにした。

前述の通り、最初はやはりなかなか難しかったのだが、だんだん慣れてくるとできるようになってきた。こないだまで三手詰めで苦労していたのに、いまは五手詰めをソフトなしで検証できるようになっている。脳が変化したとしか考えられない。将棋の勝率も、心なしかあがったような気がしている。

人間の脳みそってどういう仕組みになってるんだろうな、と思う。小学校にあがったばかりの頃、暗算で算数の計算をやるのはすごく大変なのに、筆算を使えばどんなに大きな数同士の四則演算でもできる、というのが非常に面白かった。使っている脳みそは同じなのに、紙と鉛筆を手にしたとたん、すごく複雑なことができるようになるぞ、と。

こうやって文章を書くのが昔から好きだったのだが、自分が考えていることをいったん紙に移して、そのうえでものを考える、というのが面白いからかもしれない。いまこうやって文章を書くのを趣味にしているのも、その頃の延長といえなくもない。

道具を使うと、道具を使っていないときには得られない、複雑なことが考えられるようになる。しかし、前述の詰将棋の例を見てもわかる通り、道具を使うと、根本の脳があまり鍛えられないようだ。将棋の実戦は、すべてのパターン脳内で検証しなければならないから、なるべく脳で汗をかいたほうが将棋には強くなるのだろう。

しかし、実社会にも、その理屈は当てはまるのだろうか。

道具を使えば複雑なことが考えられるようになるから、当然ながら道具を使うのがよい。しかし、道具に頼ると、今度は肝心の脳が鍛えられない。

道具を使わずに複雑なことを考えられるように鍛えることもまた、必要だと思う。でもそれだと、考えられる範囲に限界があるし……ということで、この考えは出口がない。目的によって異なる、ということだろうか。

道具は使うが、道具に頼り切らず、ときには道具を使わない選択もする。そうやって切り替えるのがよし、ということだろうか。

そういえば、ちょっと前にみた映画で茶道の映画を見たのだが、先生の所作や指示を主人公がメモにとろうとすると、先生がそれを諫めるシーンがあった。お茶というのは身体性の高いものなので、自分の脳で考え、感じ、実践することが必要、ということだろうか。

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