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「箇条書き」の沼にハマったら

仕事がだんだん重くなってきた。「耐えられないほどきつい」というレベルからはほど遠いが、転職して半年ほどが経ち、わりと重めのタスクが課せられるようになってきた。

一応、前職では自分は管理職のポジションではあったが、今回の会社ではポジションのない、平社員である(もっとも、階層の概念が希薄な会社ではあるが)。

しかし、いまの自分の部署は課員全員が前職では管理職だったというポジションの人間ばかりなので、ヒラであってもかなり難易度の高いレベルの仕事が求められている。いまの自分の業務は、自分のパフォーマンスがそのままチームのKPIに直結するという性質になっているが、それを本年度達成できる見込みが極めて薄いという状況なので、なかなか困っている。

もともと、チャレンジめの目標ではあるのだが、それにしても、だ。
 
いまの自分の仕事のうち、手を動かすことも多いけれど、メインは「考えること」だ。パワポの資料などは日常的に大量に作成するし、他部署や顧客にいろいろ説明したりする資料を作ることも多い。

しかし、そういったアウトプットをする機会は多いものの、そういった資料を作成するにあたって、その根源となる「自分でじっくり考えること」に対して時間があまり割けていないな、と思った。

つまり、パワポ資料などを通じてアウトプットは大量に行うものの、そのアウトプットの元になる「考え」というのは、自分がデフォルトに行っている「思いつき」の思考レベルであり、もっとじっくり考える必要があるのでは、と思ったのだ。
 
そこで、休みの日に、自分がいま抱えている課題を6つぐらいのセクションに割り、それぞれについて、いま書いているこのエッセイのような自由記述で、自分なりに考えを深めてみた。普段、これだけたくさんの文章を書いているというのに、仕事でこういった長文を書く機会というのは意外となく、パワポ資料で箇条書きにして書きがちなのでなかなか新鮮だった。

6つのセクションのうち、2つを書いただけで5000字を超えてしまったので、いかに自分が仕事のこの問題について考えてはいたが、アウトプットしていなかったのか、ということがよくわかった。

そして、いま自分がいるのはパワポに代表されるような「箇条書きの社会」なんだな、ということを痛感した。


 
「箇条書き」というのは魔性のツールである。最近は、マインドマップという手法が流行っていて、アイデア出しの際に有効な手法として巷間に出回っており、自分も多分に漏れずそれを使っている。

何かアイデアを形にするとき、マインドマップでそれを書き出してから、パワポに落とし込んで、見栄えのいい資料に変換する、ということがわりと自分の中ではひとつの作業工程と化してしまっている。
 
でも、よくよく考えてみると、箇条書きというのは散発的にアイデアを連射しているだけで、それらの項目の繋がりなどはほぼ考慮されていない。

マインドマップなどのツールを使うと、ツリー構造といって、ひとつのアイデアから派生したいろんなアイデアを樹形図のように展開することができるが、それにしたって似たようなものだ。

ツリーの内部ではそれから派生したアイデアが書かれていても、項目同士の相関関係を表現しているわけではないから、やっぱり思考が散発的になる。つまり、「数打ちゃ当たる」の世界観であり、「論理的思考能力」を養うことにはならないのだ。

パワポ資料は論理のように見えて論理ではなく、順番を入れ替えても成立する紙芝居にすぎない。文章による論述で、「論理を積み重ねた」思考にははるかに劣るだろう。


 
noteやブログを書くことは、そういった散発的に思考を撃ちまくるのではなく、ひとつのまとまった文章を書くことで、論理を積み重ねる訓練をする、ということに繋がっているのかもしれない。

こういった文章を書くときは、人に見せるために三度ほど推敲をするが、推敲の過程で思考が整理され、かつ、よりコンパクトな文章で考えていることが表現されるような気がしている。そうやって、文章に手を入れて論理を「洗練」をすることができるのも、箇条書きではなかなか難しい点のひとつだろう。
 
ちょっと、僕らは箇条書きの文化に毒されすぎているのかもしれない。長ったらしくてもいいから、まず「文章を書く」ことを覚え、それによって「自分で考えること」をもっと重視したほうがいいのではないか、と思った。
 
こうやって文章を書くことは、その予行演習の場だと思うと、また少し取り組み方も変わってくるかもしれない。しかし、ここで書かれている文章だけ、自分が「思考してきた」ことは紛れもない事実なのだ。
 
現に、あらゆる思想は本によって伝達されるが、パワポのスライドでは発売されない。文章を読み解くことが思考能力を高めるうえで重要であるように、自分の思考を文章にまとめることも、また必要なことなのだろう。

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