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モノをなるべく減らして生きていきたい
「ストレス発散方法は買い物」と言う人がいるが、その感覚は自分にはほぼ全くないので、実はよくわからない。自分は、どちらかというと、買い物をするとストレスがたまるようなのである。
買い物をすると、「自分の所持金が減る」というのが第一のストレスポイントで(当たり前だが)、次に、何か具体的なモノを「所有」する、というのがストレスになる。モノが増えるとそのぶん部屋がせまくなり、ごちゃごちゃしてしまうのがあまり好きではない。
なので、何かモノを買うときには、まず「それが取るスペース」について考慮することが多い。デカそうなものだと、欲しかったモノでも購入を取りやめたりする。
なぜそう考えるのかというと、自分は比較的「引っ越し」をよくするからかもしれない。これまで、10回近く引っ越しをしたが、一度も業者を使ったことがない。毎回、車を借りるなどして、自分で引っ越しをしていた。引っ越しを繰り返すたびに、自分が持っているモノの量に圧倒され、うんざりしていた。
なので、自分が必要とするモノ以外をどんどん処分していたら、そもそもあまりモノが欲しい、と思わなくなった。ミニマリストというほど大袈裟ではないが、考え方としてはわりと近いような気がしている。
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どんなモノでも、世界を循環している。自分が食べるものも、どこかからやってきて、どこかへ去っていく。パソコンや冷蔵庫などの無機物も例外ではなく、ここへくる前はただの鉄だったり、アルミだったりするわけだが、工業製品として組み立てられ、我が家でしばらく稼働したのち、要らなくなれば捨てられ、また鉄屑に戻る。巡り巡って、同じ鉄屑が今度は電子レンジとして我が家に来るかもしれない。
いわば、「所有しているモノ」というのは、永遠にここにあるというわけではなく、「循環の過程で一時的に滞在しているモノ」にすぎない。そもそも、自分が死んだら、家族が自分のモノをすべて処分してしまうだろう。
そんなわけで、「モノは所有しないにこしたことはない」というのが自分の考え方なので、例えば「本は紙派? 電子書籍派?」という考え方の答えは一択である。「自分で本を所有したくない」。
なので、例外はたまにあるが、基本的に本は電子書籍か、図書館で借りている(書店からしたら、自分は天敵のような存在だろう。申し訳ないとは思うが……)。また読みたいと思う本があれば、書名と作者名さえ記録しておけば、また手に入れることができるので、これで事実上問題がない。
先日、有給をとって、両親を伊勢旅行に連れていった。奥さんは伊勢神宮に行ったことがないというので、そこに連れていくのも目的のひとつだった。
あらためて思ったのだが、伊勢神宮をはじめとする日本の神社は美しい、と思う。伊勢神宮というのは、もちろん神様の天照大神が御座すのだけれど、偶像があるわけではない。社があるが、そこには立ち入ることはできず、布の向こうから透けて見えるだけだ。
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つまり、神様は「見えない」が、「そこにいる」という思想なのである。そして、本殿は20年で建て替えをする。建て替えをするためのスペースが、いまの本殿の隣に存在している。
つまり、伊勢神宮とは徹頭徹尾「入れ物」にすぎず、神様は目に見えないが、そこにいる存在、というのを体現している。イスラム教の聖地、メッカにあるカアバも、実態は「部屋」であり、中には何もない。それに少し似ている。
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それとは少し違うかもしれないが、「自分の生活は、絶対にこれがないとはじまらない」といった「モノ」は、僕にはほとんどない。たとえいま使っているものがなくなっても、「生活」という本質は別のところにあるような気がしている。
むやみやたらと新しいモノを買うのは、モノが滞留して圧迫されるので、性に合わないのである。「古いモノ」に囲まれすぎると、息苦しく感じてしまう。
なるべく、シンプルな生活を維持していきたい。
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