自分がいないひと

自分勝手な人、というのは、徹底的に「自分がいない人」だと思う。
 
子どもは基本的に自分勝手だ。好き放題にわがままを言う。人にされると嫌なことを、平気で人にやったりする。

そういうとき、「自分がされたら嫌なことを、人にしてはいけません」と「教育」される。それによって、「自分」を獲得していくんだと思う。
 
遠い記憶ではあるけれど、幼稚園に通い始めた頃の記憶が、うっすらと、ある。親がいない環境に出ていくのは不安で、自分が「特別扱い」されないのに驚いた。自宅では、自分が庇護を受ける対象であり、特別扱いされていたのだけれど、幼稚園に通いはじめると、自分は数多くいる「人間」の一員にすぎず、もちろん特別扱いはされない、ということを知った。

そうやって、自分の「立ち位置」というのを理解していったのだと思う。もちろん、その集団の中での自分の特性というのもまた、獲得することができるのだけれど。
 
人にされたら嫌なことをやる、ということに無自覚な人がいる。そういう人は、自分が自分を「例外扱い」していることに無自覚なのだろう。

むしろ、特別なことをしている、という感覚さえないかもしれない。その人には、「自分」がいないからだ。

「自分」を世界から外してしまっている。自分がしていることをされたらいやだな、という想像できない。だから、自分がされたら嫌なことを、他人にすることができるのだ。

視点、つまりカメラで考えてみる。主観のカメラでものをみている場合、そこに自分はいない。自分視点のカメラに自分は映らないからだ。

少し俯瞰してみると、自分の存在が見える。しかしそれは想像上のカメラだ。自分の頭上にカメラがあると仮定して、はじめて自分の存在が見える。

想像上のカメラはどんな場所、どんな時間軸からでも自分を見ることができる。しかし、そのカメラを獲得しなければ、決して見ることができない。
 
僕の場合、社会生活を送るという行為がまず、その「視点」の獲得のために必要だった。集団の中で、自分自身の立ち位置を知る。

それに加えて、読書によって、他人の視点を獲得することができた。本というのは作者が自分の視点で見た世界だから、本を読むことによって、他人の視点を擬似体験することができる。それを積み重ねると、逆に自分の視点というのが明確になる。「自分」というものが、より浮き彫りになるのだ。
 
さすがにある年齢以上の人で、「自分」の存在が皆無で、自分の好き放題にやる、という人は少ないだろう。もしそういう人がいたとしたら、ある程度は自覚的というか、「わかってやっている」ケースが多いのかな、と思う。

「自分」というものを意識する。俯瞰したカメラで、さまざまな視点を通して世界を見てみる。そうすることによって得られる「最適な振る舞い」をすることで、もうちょっとだけ、生きやすくなるかもしれない。

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