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「書くこと」の報酬

日々文章を書いているが、やはり「書くこと」がかなり好きなようである。文章を書くのは全く苦ではないので、毎日noteを更新することにも、苦痛はほとんどない。

他人と言語でコミュニケーションをとるために必要な能力は、「書くこと、読むこと、話すこと、聞くこと」の4つだ。バランスよくこれらの能力を備えているのが一番いいのだが、このうちのどれかの能力が突出していれば、それなりに社会で活躍できるとされる。すべての能力をバランスよく持っている人は、そうはいないのではないだろうか。

仕事で一番使う能力は「話すこと」かもしれない。仕事は、社外でも社内でも、「話すこと」を中心に行われる。もちろん書くこともそれなりに多いが、書く前の土台には「話すこと」があり、書いたあとは報告や交渉などでやはり話す必要がある。総合的に見れば、話す比重が一番高いのではないだろうか。

話すことは嫌いではないが、書くことほどの「思考の深み」は得られない。自分が考えていることを相手に伝えるには最も手っ取り早い手段なのだが、それにより「自分の考えを深めていく」ことがなかなか難しいのだ。

「話す」という作業では、自分のアウトプットしたものを振り返ることができないからだと思う。もちろん、録音すれば自分の発したものを再確認することはできるが、そんな面倒なことをしている人はそうはいないだろう。仮にそういうことをしたとしても、自分が話しているものをいちいち聞き返していたのでは、時間がかかりすぎるのではないだろうか。

かたや、文章はいくらでも読み直し、簡単に修正することができる。最近では、文章は修正することを前提に書いている。noteに書いている文章は、まず500字程度のメモからはじまり、そのメモを加筆修正する形で、最終的に1500字ぐらいの記事に仕上げていく。

そして、それを3日ほど放置し、もう一度修正してから、Voicepeakという音声ソフトに取り込む。

そして、文章を音声に変換したものを聞きながら、さらに2回修正をする。つまり、メモから考えると4度の修正をしていることになる。

なぜそれだけの修正を重ねるのかというと、文章のクオリティをあげるためもあるが、何度も繰り返し加筆修正することにより、自分の考えを知り、それを深めているのだ。何度も繰り返し聞くことで、自分の考えを理解し、それを精確に言語化することができる。

一度、自分がどれぐらいの文章の修正をしているのか、Diffというツールを使って、修正前と修正後のものを比較してみたことがある。それによれば、80%以上の文章に手を入れている、ということがわかった。つまり、もはや「修正」というレベルではなく、修正作業自体が執筆そのものだと言い換えてもいいかもしれない。

本記事の修正履歴

僕は、自分の中でまだよくわかっていないもの、結論が出ていないものに対しても、すぐに文章に書く習慣がついている。いったん最後まで書き上げても、まだ結論は見えない。4度の読み返し・修正を経る中で、やっと自分の考えていた内容が理解でき、それをもとに修正を入れるので、最終的には筋の通った文章となる。

そして、すべての内容を理解したあとで、最後にタイトルをつける。そういう順番で文章を書いている。

話すときは、時間は一方向に流れていき、戻りながら話すことができないので、こういうことはできない。だから、雄弁に話している人は、密度の高い話をしているつもりでも、実は同じことを何度も何度も繰り返し言っているケースもある。酔っ払いの話している内容は、たぶん素面だったら10%ぐらいに圧縮できるのではないだろうか。

手っ取り早く伝達するのならば「話す」ほうが効率がいいが、自分の考えをまとめ、思考を昇華させるには「書く」ほうがいいのではないだろうか。

「書く」能力を強化した人間だけがもつ、報酬のようなものだろう。

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