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学生時代の記憶は、「眠かった」がとにかく多い

学生時代はあんまり成績がよくなかった。大学受験でも、そんなに頭のいい大学に進学したわけではない。個人的には、自分のことをそんなにアホだとも思っていないのだが、なぜなのだろう、とちょっと不思議に思うことがある。

「学生時代はよかった」と懐古する大人は多いが、個人的には、大人になった現在のほうが相対的にいいように感じている。学校というのは、友達もいたので楽しかったが、授業中はどうも窮屈だし、「眠気に耐える時間」が長すぎる、というデメリットがあった。

中学・高校・大学と、とにかく大半の時間を「眠気に耐える」時間として過ごしてきた。親指と人差し指のあいだぐらいにある、「眠気を抑えるツボ」みたいなのはめちゃくちゃ押した(眉間あたりのやつも当然押した)。ミンティアやフリスクなどの、カフェイン入りタブレットみたいなやつもめちゃくちゃ摂取した。それでも眠かった。

一方、社会人になったいま、就業中に眠くなることは少なく、そんなツボを押すことは滅多にない。それだけでもだいぶ違うな、と思う。

勉強というのは頭を使う作業だと思うのだが、あんなに眠かったのだから、要するに頭はほぼ稼働していなかった、ということになる。大袈裟に言うと、心神喪失、ほぼ脳死状態である。

大人になると講義形式の授業みたいなものを受ける機会は著しく減るが、たまにある研修なんかだと、やはり眠くなる。こないだ、免許証の更新に行ったのだが、優良者講習で時間が短かったとはいえ、やはりちょっと眠かった。一方的に講義を聞く、みたいな状況にそもそも弱いのかもしれない。

読書では、自分のペースで文章を読むことができるが、授業の場合は自分の都合でペースを変えることができない。そういう点も、眠気に影響していそうである。

YouTubeなどの動画の場合、速度を調整することができるので、ちょっと遅いな、と感じたら速度をあげている。逆に、よくわからないことがあれば、ちょっと巻き戻すことができる。そういう機能があるもののほうが、自分には合っているのかもしれない。

仕事などで必要な情報をインプットする機会では、脳をフル回転させているので、眠くなることはない。他にも、たとえば商談などで対面で人と話しているとき、眠くなることは全くない。先輩や上司に、わからないことを聞くときも同じだ。

要は、自分に必要な情報であることがあきらかで、「この知識が必要だ」というのが前提としてあるので、「ちゃんと聞く姿勢」に自然となる、ということだろうか。講義のように、目的が不明瞭で、漠とした感じだと、本能的に「面白くない」と感じてしまうのかもしれない。

本来一番脳みそが元気な若い時期に、脳みそをちゃんと使わず、ただ「眠かった」という感想が前面にくるのは残念でならない。授業を聞くよりも、もっと問題を解くとか、自分で考えるとか、そういう時間の比率が高ければ違ったのかもしれないが。

学校の授業も、事前に動画などで予習をしてきて、問題演習を中心にした授業だったら、もっと楽しかったかもしれない。まあ、先生によっては眠くない授業もあったので、先生側の技量によるところももしかしたらあったのかもしれないが。

進学校だったのだが、たまに「家では絶対に勉強しない」というポリシーのやつがいた。学校の授業をきちんと聞き、宿題なども学校ですませ、家に帰ったら好きなことをする、という戦略である。意外にも、成績がいいやつが多かった。あえて制約を設けることで、集中力をあげていたのだろうか。

自分は家でも勉強しないくせに、授業も真面目に聞いていなかったので、そりゃあ成績は悪いよな、と思う。

「授業中の眠気に耐性があるかどうか=講義形式の授業に耐性があるかどうか」で結構成績は決まってしまうように思うのだが、どうだろうか? しかし、前述のように「講義形式が一番優れた授業の方法である」とも思えない。

自分のほかにも心神喪失、脳死状態の学生はたくさんいると思われるので、かなり重要な問題ではあると思う。教育業界における、今後の改革が待たれる。

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