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東京の人は冷たいのか?

東京に住み始めて、6年ちょっとになる。家が郊外なので、普段は郊外に引っ込んでいるものの、勤め先はずっと都心なので、ときどき都心まで行ったりする。なので、いちおう「東京で生きている人々」と普段から接していることになる(しゃべったりすることはなくとも)。

東京の人に対するよくある概念として、「東京の人は冷たい」というのがある。実際のところ、どうなのだろうか? とたまに考える。

確かに、田舎に比べると人がやたらと多いので(当然である)、いちいちそのへんの人にかまっていられない、というのはある(当然である)。田舎だと、そのへんを歩いただけで知ってる人とすれ違うし、挨拶ぐらいはするだろうが、東京に住んでいると、同じマンションの住人ならまだしも、一歩外に出ると、とたんに知らない人だらけになる。どんなに近所でも、基本的に知ってる人、というのはいない。

では、東京の人は他人に無関心で冷たいのか? というと、必ずしもそんなことはないと思う。たとえば、電車内で席を譲ったりというのは普通にあるし、道を聞けば教えてくれる。別に冷たいわけではないのでは、と思う。困っていたら声かけしてもらえることもある。

ひとつ仮説として思いついたことがある。東京というのは、全国からいろんな人々が集まってくる場所だ。つまり、東京で生まれ育った人たちよりも、大学生や社会人になってからやってくる人が多い、ということになる。

なので、ある程度「節度をもった人付き合い」がデフォルトになってからやってくる、というのが理由ではないだろうか。節度をもった、というか、そういうモードで生きている状態でやってきている、ということだ。

田舎では小さい頃からお互いに知っている人間関係が大半なので、そもそも付き合いや会話の密度が高いんだろうな、と思う。そういう環境に慣れ親しんでいると、東京での大人な関係性というのはどうもドライに感じてしまう、ということなのだろう。

しかし、じつは本質的な部分はそんなに変わらないのではないか、と思う。東京でも、下町など、その土地で生まれ育った人が多い地域では、人間関係の密度が濃いように思う。結局、東京だからどう、というわけではなく、人間の流動性がどれぐらい高いか、というのが影響しているような気がする。

東京でも、古くからある個人飲食店などでは、仏教系や神道系の新興宗教に入信している(とみられる)お店をよく見る。それは、熱心な信者活動というより、そういった「コミュニティに参加・維持する」というところを求めているのかな、と思うのである。

ただ、大きい資本によって建てられた商業ビルみたいなところでは、そういう「人情」みたいな価値観が入り込む隙はないだろう。人によっては、それを寂しいと思う人もいるかもしれないが、それは東京に限らず、全国各地で起きていることである。

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