頭の悪い人は、論破すらされない
長いこと、議論というのは知性と知性のぶつかり合いで、当然ながら知性が高いほうが勝利するものだと思っていたのだけれど、どうもそういうわけではないらしい、ということがわかってきた。
知性が高く、議論にも強い人がいることは確かなのだけれど、議論に勝つために必要なものは必ずしも「知性」だけではない、ということがわかってきたのだ。
「年をとると頑固になる」とよく言われる。でも、よくよく見てみると、年をとったから頑固になるわけではなく、若い人もたいてい頑固だ。若い人どころか、子ども、幼児だって相当頑固である。
つまり、「年代に関わらず、頑固な人は頑固」なのではないか、という仮説を持っている。では、なぜ年をとると頑固だと言われやすくなるのかというと、年をとった人間は権力をもっているので、わがままがより押し通るようになり、押し切られた側が「年をとると頑固になるんだよねぇ」とあとでブツブツ文句を言うわけである。
幼児も頑固なことは頑固だが、その頑固さを押し切るだけの権力がまだない(たまになんでも要求が押し通る幼児もいるが、それはそれでスポイルされているような気がする)。
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議論の話。議論も、「頑固さ」と同じで、力の強い者が勝つ傾向にあるようだ。俗に「発言力」などという言葉があるが、言葉とは誰にでも平等に発することができるように見えて、立場によって使える言葉には制約があるらしい。
特に、立場の弱い者が強気な発言をすると、地位を剥奪されたり、なんらかの不利益を負わされたりするので、全くフェアではない。議論は、もともと立場の強い者が圧倒的に有利であるようにできているのだ。
それに、最近は「論破」という言葉もよく聞く。自論によって相手の論を破る、という意味だ。
だが、この「論破」という概念は非常に不思議な概念で、「相手がこちらの論を理解してくれないと、相手の論を破ることができないため、論破できない」のである。
つまり、相手が自分の論を理解してくれるだけの知性を持ち合わせており、かつそれを聞き入れてくれる、というのが前提なのである。そうでない場合、物理的に「論破」できない。
「議論に強い」とされる人の議論をよく見ていると、その人に高い知性があるというよりは、ただ単に詭弁によって議論の方向性をずらしたり、相手の論を認めなかったりして、「論破されないように」していることが多いのでは、と思った。
論が複雑で込み入ってくると、相手にそれを理解させるのも難しくなるため、論破するのが難しい、ということにもなる。
理系の研究者などのなかには、「論破されるのが嬉しい」という価値観の人もいる。議論によって自説が打ち砕かれるということは、要するに自分の現状の理解を超えた意見が提案されたということで、より高い次元の知性に触れるチャンス、ということでもある。
高い知性をもっていればいるほど、「論破されやすい」ということにも言えるわけで、「論破される」というのは全く恥ずかしいことではない。論点をずらさず、真正面から論と論を戦わせることを「建設的な議論」と言うのだ。
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そう考えると、「議論に勝った、負けた」というのがそもそもかなり子どもっぽい、ということがわかる。本当に知性のある人は、相手を完全に論破したりしないし、ましてや議論の腰を折ったりしない。
「論破されることに喜びを見出す」レベルになれば、知的水準は相当高いと言えるかもしれない。
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