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魅力的な「悪」とは?

原作が完結したのでさすがにブームはひと段落したようだが、一時は社会現象にまでなった「鬼滅の刃」は、好きな漫画作品のひとつだ。コミックスも、Kindleで一応全て所有している。

日本の映画興行史上最大のヒットとなったこの作品で、「面白い」ということは一般共通認識ではあると思うのだけれど、唯一、肌に合わないな、と感じる部分がある。それは、敵役である「鬼」たちが、悲しい過去を背負っており、ワケあって鬼になった、という設定である。

物語の設定上、敵役である「鬼」は、もともと人間で、鬼舞辻無惨きぶつじむざんという悪の元締めのような存在によって、「鬼の血」を注入され、それによって不死身の鬼と化した、という設定になっている。

言うなれば、この男がすべての元凶であり、この男の悪意によって、悲しい人間たちが鬼にされてしまった、みたいな描き方がされているのである(もちろん、作中で例外はあるが、大部分としてはこういう設定)。

主人公らが死闘の末に鬼を倒すと、死にゆく鬼たちの悲しい過去みたいなのが回想シーンとしてクローズアップされて、死に至る。わりとこれは最初のほうからパターン化していて、読者は鬼になってしまった人間たちに同情し、元締めである無惨はなんてひどいやつだ、という思いをあらたにする。

それがこの漫画の根幹のつくりである。漫画としてのスタイルなので、それがダメだというわけではないのだけれど、はじめて読んだときから、なんとなく違和感はあった。少し、その違和感について言語化してみる。



僕の好きな漫画は多々あるが、「週刊少年ジャンプ」の中では冨樫義博先生と荒木飛呂彦先生の作品が特に好きである。冨樫義博先生は「幽☆遊☆白書」「HUNTER×HUNTER」などが代表作で、荒木飛呂彦先生は「ジョジョの奇妙な冒険」が代表作である。どちらも共通して言えるのは、敵役が非常に魅力的なのだ。

彼らは環境の犠牲者という位置付けではなく、実に個性的な動機をもち、主人公たちに襲いかかってくる。「環境の被害者」ではなく、実に能動的な理由で、意思をもって攻撃を仕掛けてくるのである。

中でも有名なのが「ジョジョの奇妙な冒険第四部」に出てくる「吉良吉影」というキャラで、彼は美しい女性を見ると殺さずにはいられない殺人鬼なのだが、実は心の平穏を願って生きている、というタイプの変わったサイコパスである。

荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第4部  9」より

他にも、自らを絶対的な正義だと信じて疑わず、そのためならなんでもする、という「大統領」が敵のボスだったりと、信念が貫かれているところが非常に魅力的だ。

荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 スティール・ボール・ラン 23」

鬼滅の刃の作者は、公表はされていないが女性だとされている。鬼滅の刃の場合、悪役に対しても「こうなったのはあなたのせいじゃないよ、あなたは被害者なんだよ」というメッセージが暗に示されているような気がする。

そういう意味では、冨樫義博や荒木飛呂彦の作品は非常に男っぽいとも言える。何か悪事を成し遂げるにあたり、自分の意思で行動し、責任も自分で最後まで取る、という覚悟が見て取れる。結局のところ、「悪」「正義」というのは存在せず、ただ単に考え方の違いがあるだけだ、と見ることもできる。

主人公役と敵役の何が違うのかというと、主人公側は「多数派マジョリティ」側であり、敵役は「少数派マイノリティ」ということだろう。少年漫画というのは、マジョリティがマイノリティを駆逐している作品群だとも言える気がする。

もっとも、これはどちらがいい、というものでもなく、最終的には好みの問題である。しかし、「信念のある悪役」のほうが、生き生きとしており、魅力にあふれている、と感じる人も多いことだろう。




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