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積み重ねか、死か

習い事が苦手だ。

小さい時はピアノや水泳などの習い事があったような記憶があるが、やがてぜんぶやめてしまった。どうも、人から何かを教わるということが根本的に好きではないらしい。

やりたいことは、すべて自分の我流でやる。そういう気質が根本的に染み付いているようだ。
 
一方で、習い事が好きな人と最近話す機会があった。習い事が好き、というのも何だかよくわからないが、教わったことができるようになる、というのが純粋に快感らしい。

なるほど自分と正反対のようだ。

習い事があまり好きではない理由としては、そもそも他人から何かを教わるのが好きではない、というだけでなく、何かの技能を身につけたとしても、ブランクがあるとそれが失われてしまうのが耐えがたい、と感じるからかもしれない。

例えばピアノ数年間習ったとしても、しばらく弾いていなかったとしたらまた弾けなくなってしまう。

そういったことを持論としてその人にぶつけると、「それでも昔と今とでは今の方が圧倒的にできることが増えているので、なんだかんだ前進している。進化している。」と自信をもって答えていた。

まぁ、習い事というのは基本的には修練の積み重ねだから、後になればなるほど上達するというのは間違いではないのかもしれない。その習い事の師匠にあたる人だって、積み重ねによってその地位まで来たのだろうし。
 
僕は基本的に、創作を趣味としている。その点においても、いわゆる「習い事」とは少し趣が違うのかもしれない。

とても良い作品が生み出せたら、それはその後の僕の技量とは関係なく、良い作品としてこの世に残り続ける。その感覚が気持ちいい。

別に自分の技能を無理して維持していく必要はなく、完成された作品としてそこにあるわけだから、何かを残せたような気持ちになれる。これは一種の真実だろう。

せっかく覚えたことが失われてしまうというのはとてももったいなくて、僕にはどちらかというと耐え難いことだ。

しかし創作にしたところで、創作の技術も向上したり衰退したりする。昔の方が良い作品を生み出せた、ということだって、今後は十分に起きうるだろう。

歳をとって成熟し、より洗練された作品を生み出すことができるようになる人もいるかもしれないが、若い頃の方が勢いがあって素晴らしい作品を見出せたと言う人がいるかもしれない。

素晴らしい作品を生み出し続けていたとしても、どこかでマンネリ化してしまったりもするかも。
 
もっとも、何かを残した、といっていても、未来永劫残るわけではなく、どこかの段階であっけなく消えてしまうものなのかもしれない。

たったの100年前に生み出された作品ですら、現存しているのはほんの一部であって、多くの作品は現代においては忘れ去られてしまっているだろうし。
 
結局、何かを「残す」「維持する」など、ほんの一瞬の違いでしかなく、長い目でみたら誤差のようなものなのかもしれない。

いま、この瞬間を大事にしよう。

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