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片付けと色即是空

ゴールデンウィークは在宅でヒマだし、在宅時の快適度を高めるために部屋を片付けていた。
 
自分なりの片付けの極意がある。まず、いったん、片付け対象のものを別の場所に移す。移動してから、それが必要なものかどうかを見極め、必要なものならどこに収納するかを考えていく。

その上で、元あった場所に置くべきものなら、そこに戻す。もちろん、もともとあった場所はいったんものを移動した時点で、掃除機をかけたり、拭いたりしているので、ピカピカになっている。

ピカピカのところに、必要だと判断されたものだけが配置されるから、必然的に片付いていく。
 
ここでのキモは、片付ける対象のものをいったん別の場所に移す、という工程だ。例えば、ごちゃごちゃになってる机の上を掃除する場合、まずは何から何まで床の上に移動してしまう。ゴミも必要なものも、すべて別の場所に移すのだ。
 
これを見た家族から、この工程に一体何の意味があるのかと言われたことがある。ただものを横に移動してるだけだから意味がなく、非効率なのでは、というわけだ。

僕は今まで経験上、どういうわけかこっちの方が部屋が片付くのでこうしていたのだが、なぜこっちの方が効率が良いのかということをあらためて考えてみた。
 
机の上のものを片付ける場合を想定してみる。物理的に机の上にあったものを床の上に移動すると、「もの」と「机」という「関係性」がいったん、「切断」されるからでは、と思う。

例えば、机の上にペン立てがあったとする。机の上にペン立てがあるのはごく自然なことなので、普通であればそこから動かすことはない。しかし、いったんそれを床に移動してしまうと、「これはほんとに机の上にあるべきものなのか?」という問いが生まれる。

じつは僕は自宅ではほとんどペンを使う事がない。たまに持ち帰った仕事をやるときに使う程度で、頻度としては月に一回あるかどうか。だから、本来机の上にペン立てなどなくても、棚の中とか、カバンの中の筆箱で事足りることが多いのだ。

であれば、ペン立ては机の上に置いておくのではなく、別の場所にしまっておけばいい。そうやって判断していくことで、結果的に机の上がどんどん片付いていく。
 
仏教用語で、「色即是空」という言葉がある。これは般若心経における釈迦の言葉の真髄とも言われる「キモ」の部分で、これを日常生活で意識することが多い。

「色」とはこの世にある「物質」のこと。「空」とは「存在しない」こと。この世にある物質は「存在している」とも言えるし「存在していない」とも言える、という、綾かけみたいな言葉だ。
 
これだけでは全く意味がわからないと思うが、大雑把にまとめると、「すべての物質は今たまたまその形をしているだけで、バラバラにしてしまうと意味をなくす」ということだ。

今、僕が書いているこの文章は、この順番で日本語を並べているから文章として意味らしきものがあるように見えるのであって、印刷してシュレッダーにかけ、バラバラにしてしまうと、途端に「意味」がなくなる。

既に組み立てられている文書は、バラバラにすることで「意味をなくす」ことができる。逆に言うと、「意味がないように見える」ことも、適切な位置で「組み立てる」ことで、「意味が生まれる」ということだ。
 
あなたがこの文章を読んでいるスマホやパソコンなどの端末も、バラバラに分解すると無機質な、金属やシリコンなどの物質にすぎない。しかし、無機質な物質を適切な配置で組み立てると、スマホやパソコンになるのだ。

机の上にペン立てがある。これは「ひとつの状態」だ。これを、机の上ではなく、床に移動させることによって、「机の上にあるペン立て」という状態がいったんバラバラになり、「机」「ペン立て」という個々の要素に分解される。
 
そこではじめて、「ペン立てはどこにあるべきか?」と自分に問うことができるのだ。机の上に置いている限り、そこにペン立てがあるということに疑問を持つ事はなく、おそらく部屋は永遠に片付かないままだろう。

「色」を「空」にし、「空」の状態から適切な場所に配置することで再び「色」を成す。

そういうことを意図的に行うと、理想の空間をデザインすることができるのでは、と思う。
 
断捨離という言葉が流行っているけれど、その第一歩は、まずものを「別の場所に移動させる」こと。それだけで、色から空に移行できる。そういうシンプルなことで充分なのだろう。

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