言葉を武器として磨く

社会生活を送っていると、文章が書けてよかったな、と感じることが多い。

というか、僕はたまたま、小説を書くことが趣味だったので、その延長で文章を書く習慣があり、好きでそれを続けてきたので、自然と社会で生きる有用なスキルが身についたのでは、と感じる。

これは意図的にやっていたわけではなくて、わりと偶然によるものだ。もし、ブログやnoteなどを既に書いている人がいるならば、「ネタがない」などの難しさはもちろんあると思うけれど、できれば継続することをお勧めする。現代社会において、文章力というのは身に付けておいて損をする可能性はほとんどないからだ。
 
社会で生きていると、びっくりするほど言葉が貧弱な人に出会うことがある。そういう人は基本的に口下手なので、ふだん何を考えて生きているのか全く不明なのだが、実際のところ、反射神経とか、感情とか、そういった原始的なツールを使って生きているように見える。

「言葉」は、ものを考えるためのツールのひとつなので、普段から使い込んでいないと、いざというときなかなかうまくいかないのかな、と思う。
 
言葉を使ってものを考える癖をつけておかないと、物事の本質について考えることがなくなる。それは、世間一般で言われていることを、そのまま鵜呑みにしてしまうので、とても危険だと思う。
 
世の中には、特に根拠なく「良い」「悪い」と断定されているものがある。社会通念によって一般的に言われているけれど、本当にそうなのか? と考えると、微妙なものも多い。


 
僕が最近よく思うのは、「少子高齢化」についてだ。たとえば、面接や小論文など、なんでもいいのだが、日本の問題点について論じる文章があったとして、「日本の問題である少子高齢化」などと書かれると、ちょっと待てよと思ってしまう。確かに、世間一般では少子高齢化は問題だと言われているけれど、それをそのまま前提として扱うのはどうなのだろうか、と思うのだ。
 
僕は、少子高齢化は問題の本質ではないと思う。むしろ、マクロの視点で見るならば、世界人口はこれ以上増えないほうがいいはずだ、と思う。地球の人口は、だいたい60億人ぐらいだという認識だったのだけれど、現在は77億人ぐらいいるらしい。そのうち、90億人、ひょっとしたら100億人に届くかもしれない。

現在でも、資源やエネルギーの問題があるのに、これ以上たくさんの人が増えたら、問題はさらに深刻になり、地球全体の幸福度は逓減するだろう。地球で起きている問題のほとんどは、人間の活動によるものがだからだ。もちろん、人口をすぐに減らせと言っているわけではなくて、先進国を中心に自然と人口調整機能が働いているから、人口が減るのは「自然」だろう、と思うのだ。

江戸時代や、昭和の初期と違って、子どもは労働力でもなく、むしろ教育コストが上がっているからお金ばかりかかる。そういったものにコストがあまりかからない地域では人口は増え続けるだろうが、先進国においてはそうではない。
 
なぜ少子高齢化がよくないか? というと、要するに労働者人口が減るから、国力が弱まる、ということだろう。でも、いまの時代、単純に労働者が多いから生産性が高い、ということでもないだろう。

農業ひとつ取っても、アメリカなんかだと一人で地平線ぐらいまでの広い農場を管理していたりするわけだし。そもそも、アメリカ人の人口は中国やインドと比較してもだいぶ少ない。


 
少子高齢化ひとつをとっても、そういうことを考えるわけだけれど、こういうのは「言葉」を普段から扱っているからだろう。言葉を扱う習慣のない人は、「少子高齢化は悪いことだ」と言われれば、それを鵜呑みにして、それ以上考えることがなくなってしまう。そういったことが積み重なっていくような気がするのだ。
 
言葉は「武器」だと思う。それを普段から磨いておいて、損をすることはない。

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