音楽は誰のもの?
音楽を「聴く」ことが少なくなった。
いや、普通に生活していれば、音楽はそこかしこに溢れている。街を歩けば、コンビニでも流れているし、カフェや、ファーストフード店でも流れている。もちろん、家にいても、ずっと無音ということはない。
テレビでもなにかしらの音楽が流れているし(僕はテレビを見ないが)、YouTubeを開いても、なにかしらのBGMがある。僕はネットラジオをやっているけれど、その中でもいろんなBGMを鳴らしている。
自宅では、サブスクのシャッフル再生で、常にBGMが部屋に流れている。
しかし、それは本当に音楽を「聴いて」いるのだろうか?
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自分が高校生ぐらいの頃は、もちろんサブスクなんてなかったので、音楽は主にCDで聴いていた。CDというのは、当然ながら一枚しか同時に聴くことができなかった(その点、昔あったジュークボックスってすごい発明品だな)。
コンポとラジカセの中間みたいな存在の再生機器があって、それに入れて音楽を聴いていた。流し聞きするということは基本的になく、なけなしの自分のお金で買ったものなので、ちゃんとヘッドフォンをして音楽を「聴いて」いた。
家に誰もいないときは、ちょっと音を大きくして、スピーカーで流したりもしていたけれど。要するに、「音楽を聴く」というのがひとつの完結した行為であって、「何かのBGMに」聴いていたのではなかった。
音楽は誰のものだろうか? 音楽は若者のものなのかな、という感じがする。流行りの音楽というのは、若者のファッションとワンセットになっている。
ファッションというのは、要するに、文化だ。インターネットで接続されている現代において、場所なんてどこにいても変わらないような感じがするのに、渋谷には渋谷の音楽、下北沢には下北沢の音楽があるように思う。
もちろん、田舎のほうにマニアックな音楽を奏でる人々の集団もいる。アメリカの西海岸にだっているだろう。
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音楽と新しさは、常にセットであるような気がする。昔、僕が「ジミ・ヘンドリックス」を聴いていたら、「若い子にジミ・ヘンドリックスの良さはわからないよ」と言ってきたおじさんがいた。
しかし、ジミ・ヘンドリックスは27歳で亡くなっているのだ。どうしてそんなことが起きたのかというと、そのおじさんは若い頃にジミ・ヘンドリックスを聴いていて、その当時も好きだったのだろう。
だから、その時代を生きていない僕に良さがわかるわけがない、と思ったのかもしれない。
ここからは僕の推測だけれど、そのおじさんは、当時の若者の音楽が理解できていなかったのかもしれない。年をとってくると、新しい音楽には馴染まなくなるのだろうか。
音楽「だけ」を聴くことがずいぶんと減ってきているけれど、もっと積極的に「新しい音楽」「だけ」を聴く時間も必要なのかな、と思った。
そこに「新しさ」と「新鮮さ」を感じたのなら、感覚ももっと若くなるはずだ。
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