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友だちは「情報」か?

先日、「ゆる言語学ラジオ」というYouTubeチャンネルを見ていたら、「友人」について雑談している回があった。

このふたりはとても仲がいいのだが、「あまり友達がいない」らしい。

曰く、友達と会って話をしていても、普通に本を読むよりも話が面白くなかった場合、「本でも読んでいたほうが面白いんだけどな」と思ってしまうらしい。つまり、本を読むように、新たな情報を得るような気持ちで友人と接している、ということになる。

なので、「友人を情報で見ている」と批判されることがあるのだとか。

これを見て、僕も似たようなところがあるな、と思った。考えてみると、普通の会社員の友人はあまりいない。自分が会社員なので、同じ属性の人と会ってもあまり面白くない、と考えているからだろうか。

自分の友人は、自分とは違った人生を歩んでいる人が多い。似たような属性をもった集団で定期的に会う、というようなことは皆無である。なので、自分も「友人を情報として見ている」ということなのかもしれない。

と、ここまでがこれまでもなんとなく考えていたことである。実は10年ほど前、僕もある人に指摘されたことがある。「お前、友人を情報として見てるんじゃないか?」と。

ただ、あらためて上記の動画を見て思ったのは、要するに「本当に気があった人以外とはあまり付き合わないタイプ」ということなのだろう。「相手と話が合わなくて、それを理由に友人が少なくなる」ということは、もしかすると、本当は「相手に気を遣っているから」なのかもしれない。

というのも、そういう人は(自分を含む)「相手が楽しそうにもしていない状況」を気にしている、ともとれるからだ。やたらと飲み会が好きな人たちがいるが、そういう人たちの場合、相手がたとえ嫌がっていても、無理やり誘ったりするケースもあるだろう。集団で飲んでいれば、一人は気乗りしていない人がいるとは思うが、そういうのがあまり気にならないのだろう、と思う。

「自分が楽しくなく、相手も楽しくなさそう」な状況というのは、つまり「居心地が悪い」のであり、そういう場に積極的に身を置かなくなるので、友達が少なくなるのだろう。

僕もずっと他人を「情報」として見てきたような気がするのだが、ちょっとずつ認識をあらためるようにしている。たとえば、仕事であまり気が合わなそうな人と長時間一緒にいたりすることがあるが、それなりに長い時間一緒にいれば、意外とおもしろい一面が垣間見れたりする。

「話が面白くない人」というのはいくらでもいるが、「面白くない人」というのはいない、というのが最近の発見である。どんな人でも、聞いてみると結構特殊な人生を歩んでいるものだし、何かしら自分と違った部分がある。それを楽しむことができれば、誰でも「面白い人」になる。

話を戻すと、「友人が少ない」というのは、つまり「一緒にいて居心地のいい相手が少ない」ということだろう。となると、解決方法は結構シンプルで、居心地のいい状況を作り出せば、それなりに楽しめる、ということになる。

大人の付き合いで、根強く残っている「ゴルフ」があまり廃れないのも、こういうところがあるような気がしている。何年か前、よくゴルフに行っていたのだが、よく知らない人でも一回ラウンドすると結構仲良くなったりする。お互い、最初は居心地が悪くても、「同じゴールにボールを入れる」という共通の目的があるので、自然と仲良くなれるのだろう。

つまり、「自分が楽しくて、相手も楽しそうだと、自然と居心地がよくなってくる」ということなのだと思う。その状況を自然に作れるのが友達、ということになる。

友達を情報として見ているうちはまだまだ、ということですかね。いかに「居心地のいい状況」を作れるか、本当に人付き合いの深い人はこういう部分の工夫がすごいんだろうな、という気がしている。

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