見出し画像

向こう側とかこちら側じゃない僕ら

僕が日々書いている文章は、わかりやすく書くことを心がけてはいるものの、インターネットに出回っている大多数の文章とは少し趣が違うものだと自己評価している。

妙に理屈っぽいし、わかりやすくなく、最後まで読んでも何が言いたいのかよくわからない。なにより、固有名詞が少ないので検索にも引っかからない。そういったコンテンツだと思う。ある程度は意図的にそういう内容をしたためている。
 
それでも、ある程度の人が読みに来てくれて、「スキ」のボタンを押してくれる。ある意味、自分のスタイルで成立しているとも言えるのだが、何故成立するんだろうな、ということをぼんやりと考えていた。
 
多分、記事を読みに来てくれている人は、「書き手」の人が多いのだろう。自分で文章書く人が多いから、ちょっとぐらい読みづらくかったり、読みにくい文章であったとしても、ある程度は受け入れてくれる。

そう仮定してみると、noteって読み手と書き手の境目があんまりないプラットフォームなのかなと感じる。

読みに来ている人も、自分のアカウントで何かを書いている。自分で何かを書いている人がいかに多いことか。自分で記事を書く、というのは特殊なことではなく、みんな普通にやっている。

僕もそういった人たちの文章を読みに行く。書き手同士でつながっているひとつのコミュニティーがここにある、と言い換えてもいい。
 
ブログ自体は十年ほどやっているが、ほとんどリアクションらしいリアクションはない。一方で、僕は「良い読み物ブログがない」ということに不満を抱き続けてきた。

たまにはてなブックマークなどで良い読み物ブログを書く人が見つかるのだが、たいていは一年も持たずに辞めてしまう。一年以上ブログをコンスタントにアップし続ける人は本当に稀だ。

その意味で僕も特殊な部類に入るのかもしれないが、アフィリエイトに毒されたこのインターネットで、いいオアシスはないものか、とずっと探していた。
 
noteに出会って、書く人たちが中心となって読み合う文化と言うものに久しぶりに触れたように思う。一方的に文章を読むだけよりも、なんでもいいから自分でもなにかを書いてみると絶対に面白いと思うし、「書く人たち」が集まっているプラットフォームなので、続けていれば読み手もそれなりにつく。この環境がなかなか居心地良いな、と。

本屋に行くといろんな本が並んでいる。学者の本や作家の本があり、著名人が自分の半生を綴っていたりもする。

それはある意味では、「向こう側の人たち」だ。しかしnoteにおいては向こう側もこちら側もない。あるのは「僕ら」という漠然とした集団だけだ。

でもその「僕ら」の規模は結構大きいと思う。あらゆる人が、ゆるく、表現者になれるようなプラットフォームなのではないかと思う。
 
noteを書くことで、noteの収益で食べられる人ももしかしたら出てくるかもしれないけれど、僕はそれよりは、みんなが自分の生活を持っていて、ほんの少しの時間をnoteを書くことと読むことに費やし、生活を分け合える場であればいいなと思う。

そのほうが居心地がいいし、書き手の人となりがもっと知りたくなる。更新されるのが楽しみになる。
 
noteはいいぞ。心からそう思います。今日も読んでくれてありがとう。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。