自己矛盾を含むものが、思想

また岡田斗司夫のYouTube番組を見ていて、面白い表現に出会った。「作品の思想性」について、である。

視聴者から、キングコング西野氏が制作(したとされる)「えんとつ町のプペル」を見て、感動して何度も見て泣いたので、それについて解説してくれ、という依頼がきたらしい。

だが、岡田斗司夫は、「えんとつ町」は「感動ポルノ」であり、「泣ける」ものを押し売りしているだけだから、解説するに値するものではない、とこき下ろす。もちろん僕は「えんとつ町」を見るようなタイプではないし、その意見にははなはだ同感である。

しかし、面白かったのは、「なんで見る気にならないのか」を岡田斗司夫が明快に表現してくれたところにある。
 
簡単に言うと、「えんとつ町」には「思想性がないから」だ、と。思想性がない、というのは具体的にどういうことかというと、「自分はこうだと思うけれど、こういうところを突かれると痛い」という自己批判的な部分がないのだ、と。

それに加え、この作品は「感動ポルノ」であり、視聴者の感動する心をかきたてはするものの、それ以外に特に効用がないものだ、と。要するに、簡単にいうと「中身がない」、とそういうことを言っているわけだ。

岡田斗司夫がよく取り上げるのはジブリの宮崎駿作品だけれど、その理由は簡単に言うと「数字がとれるから」らしい。でも、それだけじゃなくて、宮崎駿の作品は「思想性があって面白い」し、分析して解説するに足るものだからだ、と。

ジブリの宮崎駿作品を何度も何度も見る人が多いのは、それがエンターテイメントとして面白いだけではなくて、自己批判性を多分に含んでいて、いろんな見方ができるから、ではないだろうか。

物語として「わかりやすいもの」を提供するのがクリエイターの務めではあるけれど、さまざまな考え方がぶつかりあって、はじめてひとつの「思想」になることができるのかな、と。
 
そのわかりやすくて代表的なものが「戦争」だろう。戦争は決してなくならない。だけれど、「戦争」をなくすために、戦争反対の作品を作っても、それは戦意を高揚させるためのプロパガンダ映画を真逆にしただけで、やはり底が浅い。

戦争をする人たちはなぜ戦争をするのか、どういう正義に基づいて戦争をするのか。そういったところまで踏み込んで、究極のところで「矛盾」をはらむレベルまで描写できているものが、「思想」のレベルに到達できるのだろう。

戦争する人たちも、その人たちなりの正義があり、それをする理由があって行っているものだ。ある種、そういったことを肯定的に描く部分がなければ、底が浅いと言われても仕方がない。

僕はあらゆる言説においても、「何が言いたいのわからない」ぐらいでちょうどいいと思っている。何かを明言することほど浅いことはない。

受け手がそれぞれ、自分の思うように解釈すればそれでいいのだ。

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