見出し画像

「みんなで考えること」に意味はありますか?

自分が学生だった頃から、学生の社会的・政治的な活動のことなんてほぼ全く興味はなかったのだけれど、最近はさらに冷めた目で見ている。

そもそも僕は大学時代友人があまりおらず、学外でも顔を合わせる友人は在学中通じて2人しかいなかった(入学当初は同じ学部の連中と付き合いがあったが、不毛だと感じたのでGWあたりを境に関わるのをやめた。高校時代の友人が名古屋の大学に通っていたので、そこの大学のサークルには所属していた)。

なので、そういう活動をしている人陽キャとはもともと接点がないのだけれど、フィクション作品の中や、ネット記事や、本を通じてそういう活動をしている人を知ると、ちょっとしたカルチャーギャップを感じる。
 
大学生というのは暇で、体力があり、何か目的を欲しがっているものなので、「社会を変える」とか、「いまの政治に疑問を」とかいう活動に関心をもつ年代なのかもしれない。就職して会社員になると、時間的余裕はないし、体力もないので、そういう活動からは距離をおく傾向にある。

しかし、時間的・体力的制約以外にも、そういう社会を変革する活動にはあまり意味がない、と感じている。
 
まず、「みんなで」社会を変えよう、という姿勢があまり好きではない。政治的な主張をしている学生は、「みんなにもっとよく考えてもらいたい」という名目で、周囲の人々を扇動アジテーションする。「もっと声をあげてほしい」というのもよく聞く。

でも僕はまずこれが疑問で、「みんなが」考える必要がどこにあるの? と思ってしまう。
 
ポピュラーなのが、「原発に反対か、賛成かをみんなで考えよう。あなたはどう思いますか?」という類の活動だ。原発の専門家でもない人間が、反対か賛成かを、どういう根拠をもって考えられるというのか。

もっというと、原発問題というのは、エネルギー問題という非常に大きな括りの中の問題の一部であり、エネルギー問題は、いまさかんに議論されている環境問題とも密接に関わっている。そんな世界規模マクロな視点で、適切な知識や経験をもった一般市民がそのへんを歩いているわけがなく、結局は幼稚な感情論になってしまう。

「どう思いますか?」という問いかけに全く意味を感じない。「適切な対応策は何か」と問わなければならないのだけれど、そんな複雑なことに答えられる市民はもちろんいない。


 
世の中には問いやすいテーマと、問いにくいテーマがあるようだ。たとえば、先に述べた原発問題、領土問題、人権問題、環境問題などの一部は、比較的大衆に問いやすいテーマだと思われる。

一方、いま世界で非常に問題になっている半導体の供給不足についてはどうだろうか? これだって、世界に影響を非常に与えるテーマだけれど、半導体の供給サプライに対して適切な意見が述べられる市民はいない。

重要なテーマには違いないし、自動車やスマホなど、ものすごく身近なところで使われている半導体が供給不足で、日本は自動車を輸出してその金で中東から石油を買っているのだから、死活問題だといえるぐらい大きな問題だが、「感情」に訴えかけるわかりやすい対象がないので、議論しにくいのだろう。
 
大人になって、社会に出てみると、世の中には非常にたくさんの「専門家」によって成立しているのだ、ということがわかる。たとえば40年間、同じテーマについて研究している人がいたとして、その人に知識や経験で敵うわけがない。

組織の内部についても同じで、例えばIT企業の社長が製品のプログラムを詳細に把握しているわけではない。それどころか、ある程度の規模になれば、部長クラス、課長クラスであっても、詳細まではわからない。

実際は、末端にいる「専門家」がこなしているのだ。その「専門家」を管理し、使いこなすために管理職がいる。
 
民主主義についても誤解があるように思う。民衆は「政策」を選んでいるわけではない。「政策」を実行する「為政者いせいしゃ」を選挙によって選んでいるのである。

つまり、政治の専門家を選んで、その人に政治をしてもらっているわけだ。そのへんの八百屋のおじさんが、複雑な国政についてわざわざ考える必要はない。衆議院議員を選ぶことで、その人に代わりにやってもらうことができる。八百屋のおじさんに求められる能力は、適切な為政者を「選ぶ」能力だ。


 
だから、「適切な人に代わりにやってもらう」というのが最善、という、若者にとっては非常につまらない結果となる。しかし、実際はこのロジックで世の中は運営しており、発展していっている。

だから、もし社会をいい方向に導きたいと思ったのなら、国民全体の知的水準リテラシーを引き上げ、適切な為政者を選んでください、ということになる。口先だけではなく、実際に実績のある為政者を選ぶことが必要だけれど、それを選ぶためにはそれなりの知性がなければできない。
 
なので、学生はそんな活動をする暇があったら、勉強しなさい、というのが結論になってしまう。自らがなにがしかの道を極めて専門家になることができれば、他に追随を許さず、社会に貢献できるので、それでいいじゃないか、と。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。