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なぜ上司は「それぐらい自分で考えろ」というのか

先日、友人の音声配信を聞いていた。その配信自体は対談ラジオ形式のものだったのだけれど、対談相手の話が少し面白かった。

社会人2年目のときに、当時の上司から「若者は『すぐに答えを求めすぎる』とたしなめられた」、というエピソードを語っていた。ある仕事を任されたとき、やり方が効率的ではなかったため、上司に注意されたのだという。そのときに、「じゃあどうしたらよかったんですか?」と上司に逆ギレして言い返したところ、「すぐに答えを求めすぎるのはよくない」と呆れたように言われた、と。

その上司は普段は利益を求めるタイプの人だったので、今まではわりと仕事上のアドバイスもくれたのに、そのときはくれなかった、ということを語っていた。もっとも、それは社会人2年目のことであって、いまでは「なぜ言い返したらダメなのか、わかった」ということだったのだが。
 
実際のところ、とてもよくある話ではある。上司に質問に行ったら「そんなことぐらい自分で考えろ」と一蹴されることもあるし、「なんですぐに聞きにこなかったんだ」と叱られることもある。

そのふたつはまったく矛盾しているので、どうしたらいいかわからない、理不尽だ、無能な上司だ、とブツブツ言ったりするのが定番コースだ。
 
なぜ、業務上のやり方について質問しても答えをくれないのかというと、答えはものすごくシンプルで、「そのぐらいの問題に対処できるレベルの実力を身に付けてほしいから」、これに尽きる。上司に何か質問をしに行くということは、ゲームで例えるなら攻略サイトを見に行くようなものなので、聞きにくるな、ということなのだろう。

一方で、業務上の手順など、自分で編み出すことが知能や技能につながらないようなことを手間をかけて模索するのは時間の無駄なので、さっさと聞きに行ったほうがいい、ということになる。

もちろん、社会人としての経験が浅いうちは、その区別はなかなかつきにくいかもしれない。


 
僕はこうやって考えることが多い。仕事は、「前例があること」と「前例がないこと」に大別される。会社というのは、もちろん定型業務として昔からやっている業務が大半だけれど、当然ながら、社内で誰一人やったことのない「答えのない仕事」も存在する。

昔からやっていて、社内に知見が溜まっている場合は、それをやっている人のところに行って、教えを乞うたほうがはやいのは当然のことだが、前例のない仕事は、上司であろうと答えは持っていないので、「どうすればいいんですか?」と聞かれても、明確な答えを与えることはできない。

しかし、そういう場合は、そもそも「やり方を考えること」自体が仕事の一部分なので、上司に聞きに行くということは、「上司に仕事をやってもらっているのと同じ」、ということになる。簡単にいうと、自分自身の存在意義がなくなる。「考える」割合が多い仕事だってあるのだ。
 
そもそも、仕事の本質は、誰もやったことのない未知の状況にいかに対応していくことか、だと思っている。しかし、いきなり誰でもそういうことができるわけではないので、そこは上司がある程度突き放して「教育」しなければならない。逆に、社内にある程度ノウハウが溜まっている仕事であれば、アルバイトを雇ってやらせればいいわけで、自分でやる必要は全くない。
 
冒頭のケースの場合、おそらくその上司は、「自分で考えてほしかった」んだろうな、と思う。自分で解決方法を編み出す実力を身につければ、次からはもっと難しい問題にも取り組める。そういう力を身に付けてほしかったのかな、と。


 
もしも、「まったく見込みがない」と思われていたとしたら、そういう機会すら与えられず、ひたすら定型化された業務をロボットのようにこなす仕事だけを与えられることだろう。それがいい、というのならば、まあそれでもいいんだけど、若いうちからそういう仕打ちを与えられると、経験値が不足してしまい、後から痛い目を見るのは明らかだと思う。

アメリカなどの成果主義の社会では、「仕事を考える人」と「仕事を実行する人」に明確に区分されていて、「人を育てて、成長させる」という考え方がないので、いったん「頭を使わない仕事」に就いたら、一生そのままだと聞く。まだ、新人を育てよう、という風土のある日本式組織の優しさなのかな、と。

上司の気持ちは、いつか自分が上司になったときにわかりますよ、と思う。案外、そういう瞬間はすぐにくるものだと思う。

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