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ロボットに見える人々がロボットを作っている

何年か前に「学校で勉強している同級生がロボットに見えた」「だから学校には行かない」と主張し不登校系のYouTuberとして活躍していた子がいた。出てきた当初は小学生だったので、「まあそういう意見もあるよね」と一定の支持を受けていたものの、最近はいい歳になってきたはずなので、どのような評価になっているのだろうか(まだYouTube自体はやっているようだが、詳細はよく知らない)。

そういう主張が一定の層に受け入れられるということは、たとえば学校教育に反発している人が一定数いる、ということなのだろう。「学校教育に意味はあるのか」と言っている人は昔からいる。学生が「こんなことを勉強してなんの役に立つのか」とぼやく場面も多いと思う。

典型的な「学校否定派」の意見として代表的なのは、「Googleを使えば、わからないことは全部調べられる」というものだ。また、「小学校でやる計算問題なども、電卓を使えば計算できる」と。

その意見に対して、「そもそもGoogleで調べられない問題はどうするのか」や、「計算機でできない計算はたくさんある」と反論する人もいる。しかし、そういう意見は間違ってはいないが、本質を捉え切れていないようにも思う。

僕が思うのは、「Googleを使えば確かにある程度の問題は解決できる」が、それではわからない世界がある、ということだ。

新しい概念が誕生したとき、それに対していろいろな立場の人がいるように思う。

1.革新的な仕組みをつくった人間。
2.仕組みを使ってビジネスを発展させる人間。
3.ただのユーザー。
4.ユーザー以外。

「Googleを使ったらなんでもわかるから、それ以上は必要ない」という人は、この分類でいくと、3にしかなれないように思う。新しい概念に関心を示さない4よりはマシかもしれないが、それでもただのユーザーでしかない。

そのプラットフォームを十分活かそうと思えば、2に移行することが必要で、たとえばYouTuberなどがそれにあたるだろう。既存の仕組みに則って仕事をするという点では、一般的な会社員も2に属するかもしれない。

しかし、1はそもそもゼロベースで、例えばGoogleそのものを生み出すような行為のことだ。ここの段階に行くにはかなりの勉強と努力が必要で、並大抵のものではない。

Googleを創業したラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンはスタンフォード大学でインターネット検索エンジンに関する研究をして、それがGoogleの基になった。だから、1であることは間違いない。

しかし、一般的な会社員でも、大半は2だが、時に1に関わり、大きく貢献する、というようなこともある。しかし、ある程度の資質と実績がないと、1の一翼を担うのは難しいだろう。

世に言う「起業家」の大半が、1を標榜しているものの、実態としては2以下の人が多いのではないか、というのが僕の意見である。起業家といえども既存の仕組みを使って儲けたりしている人が大半なわけで、1には程遠い場合も多い(とはいえ、独立独保で2が実現できるだけでも十分にすごいことではあるのだが)。

本格的に1の世界に行くためには、大学の研究職とか、開発者ということになるだろう。そういう人間になるには、基礎的な知識として学校の勉強が欠かせないわけで、学校の勉強を頑張るのが何よりも近道になる。

例えば海外の人と仕事をするとき、英語は必要になるだろう。古典などはなんの意味があるのかと思われることもあるが、外国に行ったりすると自国の古典に通じているのが「教養だ」という価値観の国は多いので、勉強しておいて損には全くならない。つまり、学校で教えることに無駄なことは実はすくないように思う。

冒頭の某YouTuberにとっては、「同級生がロボットに見えた」のかもしれないが、実際のところ、学校の勉強を頑張って1の人々が作った世界で生かされているロボットにすぎないのである。

数十年後、「ロボットに見えた同級生」たちが作り上げた世界で、それこそロボットのように生きるしかないのだろう。

自分はそういう生き方をする、という宣言なのであれば、お好きにどうぞ、と言うしかないだろう。しかし、世の中は全員がそういう意見なわけではない。

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