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凡人が一番「生き残る」のでは?

SNSや雑誌の記事、ネット記事などを見ていると、「生き残る」といったメッセージを含んだ内容のものが目につく。「これから、AIに仕事が奪われる中で、生き残る仕事」みたいなテーマはみんな大好きだろう。

AIにさして関心のない人であっても、「AIに仕事を奪われるかどうか」みたいな話題は気になるのではないだろうか。自分の食い扶持が残るかどうか、という死活問題に直結するからだ。

「生き残る」という観点では、「とにかく優秀にならなければ」とか、「とにかく抜きんでた能力を獲得したり、実績を残さなくては」と考えてしまいがちだが、果たしてそうかな、と思う。

なぜなら、世の中の大半の人は凡人だからである。

「優秀でなければ生き残れない」なら、世の中の大半の人間が死滅する、ということになる。果たしてそんなことになるのだろうか?

「生き残る」という観点でいうなら、凡人が一番生き残るのではないだろうか。なぜなら、凡人のほうが多数派マジョリティだからである。「偏差値」という概念で考えるなら、偏差値70以上の人なんてほぼいない。

偏差値50が中央なので、まあそれよりはいい、という程度の「偏差値55」ぐらいが「ちょうどいい」のではないだろうか。ちなみに、僕の卒業した大学の偏差値もだいたいそれぐらいである。凡人ですね。

ブラック企業で働くと、なまじ優秀なやつから潰れていく。というより、「潰される」と言ってもいいかもしれない。優秀な人は際限なく仕事を押し付けられ、責任なども問われまくるので、体のいいサンドバッグみたいになるのだ。

もちろん、明らかに落ちこぼれているやつも、「お前のせいでこうなったんだ」とやはりサンドバッグになる。落ちこぼれと優秀なやつは、ベクトルが違うだけで、結局同じなんじゃないか、と思うこともある。

そこそこの成績をあげている凡人は、一番何も言われない。なぜなら、数として一番多いのだから、凡人を否定しはじめると会社として成立しない。全員辞めてしまう。

「超優秀であること」に意味はほとんどないな、というのが実感としてある。もちろん、優秀であるにこしたことはないし、努力は惜しむべきではないのだが、「超優秀じゃないとダメ」とか、「超優秀じゃないと生き残れない」かというと、そんなこともないだろう、と。

周囲から抜きん出た能力をもった人間は、ある意味では「異常」なので、目立つし、マークされる。トップを走っている人間は、全員から集中砲火に遭うのだ。宿命といってもいい。

もともとの能力が高くて、結果として「超優秀である」というのならば仕方がないとは思うけれど、少なくとも「生き残る」とか「幸せになる」という観点で考えるならば、「超優秀である」ことは分が悪いかもしれない。

雑誌やSNSだと、どうしても「超優秀」や「超落ちこぼれ」のことばかり目につく。でも、世の中の大半は凡人だし、凡人はたくさんいるのだから、一番生き残る。そういう観点をもつことも大事なのでは、と思う。

街では牛丼チェーンがしのぎを削って、新商品を出したり、値下げ競争をしたりしているが、そういうところとは無縁のところで、町中華が何年も生き残っていたりする。大成功はしていないかもしれないが、大失敗もしていない。でも、生き残っている。そういうのもありじゃないか、と。

まあ、要するに「生き残る」というワードは、センセーショナルな「煽り」なのだろう。「凡人が生き残れないなんてワケあるかい」と構えていればいいのである。

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