見出し画像

議論好きは深い知識を持っているか?

新しい知識に触れるとき、「視覚」つまり目から入れるタイプと、「聴覚」耳から入れるタイプがいる。「視覚」から入れる知識の代表は読書だろう。「耳」から入れる知識は、人と話すこと、例えば議論などが挙げられると思う。

僕はどちらかというと視覚から知識を入れるタイプだとは思うが、議論も別に苦手ではない。しかし世の中には驚くべきことに、「他人と話す」ことによってしか知識を入れられないタイプがいて、そういう人は、ほとんど文字を読まず、他人と会話や議論をしながら、さまざまな知識を仕入れていく。

これらはどちらがいいということではなく、一長一短である。前者のタイプは広い知識を手に入れることができるが、会話によってしか得られない知識というものもある。後者は、人と会う仕事が多い、たとえば経営者などに多いタイプのように思う。

古代ギリシャのソクラテスは、読書からではなく、議論によって思考を深めることが重要だと説いた。もちろん、彼は字を読むことが苦手だったのではなく、読書による過剰な知識によって、物事の理解が表面的になってしまうことを恐れていたのだとされる。

確かに、何も考えずに本を読むよりも、あるテーマを基に他者と議論したほうがより理解が深まる、ということは多い。では、「議論は読書に勝る」という結論になるのだろうか。

しかし、世の中を見渡してみると、驚くべきことに、議論好きなのに、全く考えが深まっていない、というタイプの人がいる。議論好きで、たくさん議論をしているのに、思考が一歩も前進していないのだ。

議論好きの人の議論をよく聞いてみると、他人に対して自分の意見を押し付けているだけで、実は他人の意見を全く聞き入れていない、という場合がある。そういう人は、議論とは「自分の持論を展開し、相手を論破すること」だと思っている。

そういう人にとって、議論とは相手を打ちのめすことなのだから、その人がその議論の前後によって新しい知見を得ることはない。それは、本当の意味では議論になっていないのだろう。

読書でも同様で、いつも同じようなタイプの本を読んでいて、自分の持論を支持するようなものしか読まない読書をしていると、何も読んでいないのと変わらない。ソクラテスの言う、「表面的な読書」に終始しているからかもしれない。

読書にしても議論にしても、それによって自分の考えが「変化する」ということが大事なのだと思う。その経験を経ることによって、それまでの自分の知識や視点がアップデートされる。その読書や議論の前後で、自分が多少なりとも変わっていないと意味がない。

なので、完全に内容が理解できる読書に意味はないし、完全に自分が相手を論破できる議論にも意味がない。気づいたら、完全に自分が理解できる読書や、相手の言うことを理解せずに進める議論ばかりしている人は、要注意である。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。