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高級ブランドと馬鹿者

「馬鹿」という言葉の語源をご存知だろうか。諸説あるのだが、泰の皇帝だった胡亥コガイと、側近の趙高チョウコウに由来するエピソードがある。

胡亥は皇帝としては幼かったため、側近である趙高がかなりの権力をもっていた。あるとき、趙高は自分の権力を誇示するため、鹿を連れてきて、「変わった馬です」と言って皇帝に献じた。

しかし、当然ながらそれは鹿だったので、「鹿では?」と胡亥は問い返す。そこで、趙高は周囲にいた家臣たちに「これは鹿か?」と問うた。家臣たちは趙高を恐れ、鹿だとわかっていながら「馬です」と答える者たちがいたという。これが馬鹿の語源(諸説あり)である。

要は、「馬鹿」というのは、頭が悪いというニュアンスではなく、権力に屈する者、媚びる者、というようなイメージだろうか。つまり、現代で言うと、上司にゴマをする茶坊主みたいなのが「馬鹿者」ということになる。

考えてみると、これには二段階あるように思う。権力に屈して、黒を白と言う以前に、そもそもの価値そのものを見極められるかどうか、ということだ。つまり、先述の「馬と鹿」のエピソードでいうと、「鹿だとわかっていながら、馬と答えた者」は当然馬鹿者なのだが、もしかすると「鹿だということさえわかっていない者」がいるかもしれない。これも当然ながら馬鹿者である。

現実世界では、そもそも「鹿かどうかが見極められない人」も結構多いのでは、という気がしている。「周囲が馬と言っているから、よくわからないけど、馬なんだろう」と判断する、ということである。

どんなものでもそうだが、価値を見極めるのはなかなか大変な作業である。現代人はとにかくランキングやレビューが好きで、なんでもかんでもランキングやレビューによって判断しようとするが、それは価値判断を放棄している、ともとれる。価値判断を行うことができないので、ランキングやレビューに頼っているというイメージだろうか。

「世間でいいとされているもの」は、やがて有名になり、ブランドになっていく。ブランドを頼りに価値判断する人は多い。もっとも、それ自体は価値判断のアウトソースのようなものなので、問題はない。たとえば、高学歴の人は、それなりの知力をもった人なんだな、と判断することができる。本当に知力があるかどうかはわからないが、ひとつの判断基準になる。

僕は家電品などをAmazonで買うことがあるが、わけのわからないメーカーのものを買うのはリスクが高いので、なるべくよく知っているメーカーのものを買うことにしている。メーカーを信頼するということは、そのメーカーのロゴの入ったものであれば心配ない、というわけである。

ただ、ブランドというと、高級ブランド品のように、品質を担保する以外の意味合いを持ち始めているものもあるように思う。ブランドが担保しているのはその品物の価値だけのはずなのに、高級ブランドを身につけている自分がそれにふさわしい価値がある、といった価値の逆転現象が起きているのだ。

実際のところは、どんな高級ブランド品であっても、お金を出せば買えるものなので、それを身につけているからといってそれにふさわしい人物、ということには当然ならない。高級ブランドを身につけている人をみても、普通はそれだけ現金を散財したんだな、と思うだけである。

高級ブランドの力を信じ、自身への箔付けとしてそれを身につけているのは、正当な価値判断のできない馬鹿者というべきだろうか。あるいは、そのブランドに惑わされているほうが馬鹿者とみるべきか。どちらかというと後者のような気がしているが。

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