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ゼロベースで考えること

座右の銘というほどではないけれど、生きる上でできる限り気をつけている点として、「なるべく頭を使うようにする」ということがある。

こうして日常的にブログを書いたりするのも方法のひとつだ。普段から使っておかないと、いざというときに使うことができないと思うので、意識的に頭を使うようにしている。
 
以前、ニコニコ動画の創業者である川上量生氏の本を読んでいたときに、興味深い内容が書かれていたことを思い出した。川上氏は、「天才」のことを定義するときに(そのときの「天才」とは、ジブリの宮崎駿のことを指すのだが)、「天才とは、高性能のシミュレーターのことである」と定義していた。

身もふたもない言い方ではあるけれど、つまり、頭がいい人というのは、あらゆる状況を正確にシミュレーションできる人、という風に定義できる、というのである。宮崎駿は言うまでもなく天才的なアニメーターだが、とにかくシミュレーション機能が卓抜している、と川上氏は見ているらしい。

逆に、ディズニーの映画の作り方というのは、「天才性」というのを極力排除して、いろんな人が分業で寄ってたかって作る手法を採用しているそうだ。この場合だと、「天才」が要らないらしい。でも、代わりに「作家性」というのはなかなか出てこない、と。

最近で言うと、AIの台頭もその文脈のなかに含まれるかもしれない。AIが本格的に人間社会に入り込んでくると、人間はもはや「自分で考える」ということをしなくなり、AIの言うことを御神託のように崇めることしかできなくなるだろう。

もしかしたら、すでにそういう時代に突入しているのかもしれない。


 
生きていると、当然いろんな経験を重ねるから、新しいものに出会っても「これはこういうものかな」とアタリをつけられるようになってくる。それは、はじめて会う人間についてもそうだし、新しいサービスや製品についてもそうかもしれない。

そうやって、いろんな経験を重ねているからこそ、物事の判断スピードが早くなる、という側面もある。自分の中にそれまでの蓄積があるから、そのデータベースを参照して、早く答えを出すことができる、というわけだ。
 
しかし、そのように判断スピードは早くなる一方で、それは自分の中の経験をベースに弾き出した結論にすぎないわけだから、当然間違うこともある。世の中では常に新しいものが生まれているわけで、過去の出来事がそのまま通用するとは限らない。

なにより、そうして「考えること」を放棄することによって、いざ考える必要性が生じたときに、「考えること」ができなくなっているかもしれない。それがもしかしたらいちばん怖いことなのかな、と思う。
 
なんでもかんでもゼロベースで考えていくのは大変だし、何より時間がかかるので、大半のことはこれまでの経験ベースで判断してもいいと思うのだけれど、「世間ではこう言われているけれど、本当にそうなのだろうか?」「過去の自分の経験ではこうだけれど、本当にそうなるのか?」については、なるべく考えていくようにしたい、と思う。

それは、生きていくうえで重要だと思うから、という単純な理由ではあるのだけれど。


 
そういう意味では、僕が普段習慣にしている「読書」にしても、ただ読んだり、ただ覚えたりするだけでは不十分で、「ここに書かれていることは本当なのか?」というところから考えることが必要、ということになる。そういう「考える題材」を得るために、僕は本を読んで、文章を書いているのかもしれない。
 
身体を動かすことと同様に、考えることもまた面倒なものではあるけれど、普段から使っておかないといざというときに使えないものなのかな、ということを思う。

考える習慣を、いつまでも失わないようにしたい。

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