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訓練と習慣

先日、お会いした人から、「たとえば10年後どうなっていたい、というビジョンってあるんですか?」という質問を受けた。
 
僕が普段からいろいろ自分の考えの発信などをしているので、最終的にどういうものを目指しているのか、それが気になったらしい。でも、僕はしばらく考えて、正直に「全く何も考えてないです」ということを言った。

その後もしばらく考えてみたが、結論は変わらなかった。何も考えていない。どうなっているか、想像もつかない。
 
計画性がない人間だ、といえばそれまでなのかもしれないけれど、あまり先々の計画を立てるタイプではない。普段からいろいろなことを考えてはいるけれど、ある理想とするものあって、そこに近づいていくための努力というよりは、自分自身を変化させていくことを楽しんでいるのかもしれない。
 
先日、「ミニチュアカレンダー」というウェブサイトを運営している人のインタビューを読んだ。ミニチュアカレンダーというのは、身の回りの雑貨や日用品に、ミニチュアの人形を配置して、ちょっとしたジオラマをつくることをやっている人だ。

はじめは趣味だったらしいのだけれど、いまはそれを職業にしてやっているらしい。
 
驚くのは、それを毎日更新している、というところだ。ブロッコリーが木のように見えるので、それを木に見立ててジオラマを作った、というのがその人の活動の原点だったらしいが、「どういうところからこの発想を得たんだろう」、とよく感心する。

それをインタビュイーが指摘すると、その人はこう返した。「訓練と習慣です」と。日常的にそれを訓練としてやっていると、いつしかそれが習慣になり、毎日でもできるようになるのだ、と。

訓練と習慣、というのは確かにいい言葉だ。僕も、自分に課しているものはそれに近いかもしれない。訓練と習慣によって、自分自身を進化させていく。そこに面白みを感じている。
 
たった一年前でも、自分の書いたものを読むと、ずいぶんと幼稚なことを言っているように感じる。いま、このエッセイをKindleで配信するための校正をしているところなのだけれど、たった一年前の文章がどうも自分の考えとズレてきていて、違和感を感じている。進化か退化かはわからないけれど、「変化」していることは確かなようだ。
 
10年後にどうなっていたいか? そんなこと、いまの僕にわかるはずがない。一年前と今の自分ですら、別人のようにものの考え方が変わっているのだから、10年後にはどのようになっているのか、というのは想像を絶する。

根幹の部分は変わらないかもしれないけれど、この10年間で、またたぶんいろいろなことを考えるのだろうな、と。

訓練と習慣によって、自分自身をどんどんアップデートしていく。それ自体が自分の方向性だといってもいい。「こうなりたい」と願ったのは過去の自分であって、過去の自分の価値観を超えたところに、未来の自分はある。

何を考えているのかはわからないけれど、いまの自分の想像を超越した存在として、10年後の自分の到来を楽しみに待ちたいと思います。

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