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発言している人の立場で物事を判断するのは悪手か?

りなるさんの「正しさ」について書かれた記事を読んだ。

書いてあることは至極当たり前のことではあるのだけれど、なかなか興味深かった。

今の世の中、みんなお手軽に、そして簡便に「正しさ」というものを求めており、本質的な正しさを自分の目で見極めているのではなく、主張しているひとの「立場」によって、その「正しさ」を判断しがち、という内容だった。なるほど。

例としてあげられているのが、ある前科をもった者が善意で指摘したことが、「前科がある」という事実だけで歪めて解釈されてしまう、という逸話。これも、現実世界に照らしても、まあそういうものかなと思う。


 
しかし、それで終わったら面白くないので、少し自分なりに考えてみる。

相手の立場をベースに物事を判断することを「立場至上主義」というなら、これが世の中では標準的な考え方だし、自分もそうしているように思う。やっぱり社会的地位の高い人は一流だし、ブランド品は質がいい。

権威やブランドというのは、何も偉そうにしたり暴利をむさぼったりするために存在しているのではなく、実際に便利だからそこに存在しているように思う。

例えば、ショッピングモールの中で、ユニクロの服を買うか、高級ブランドの服を買うか、という選択の場合、品質は実際はどちらもそう変わらない。本当に見る目のある人にしか、高級ブランドの質の良さはわからないだろう。

しかし、インターネットで全く知らないメーカーの服を買うと、あまりにも質が低くて、すぐにほつれてしまったり、ボタンが取れてしまったりする。ブランドというのは、盲信すると不利益があるが、参考にすると得が多いように思う。

また、科学の世界でも同じことがいえる。論文は誰でも書いて発表することはできるが、きちんと査読され、権威のある雑誌に掲載されることでよりその価値が広く知れ渡る。

権威のある雑誌は、その権威を維持するために実績を積み重ねているわけだから、それを全面的に信用するのは悪い選択ではない。たとえば、何かの分野で一流の人が、その道で10年も20年も一流であり続けたのだとしたら、「もはや本物」だと言えるのと似ている。

もちろん、自分の専門分野ならば、「これは偽物」「あいつはペテンだ」というのは見抜けるかもしれないが、そうやってきちんと正当に評価できることは、そう多くはない。むしろ明るくない分野では、「自分の目で見極めよう」とすればするほど、ペテン師のワザに引っかかってしまうようにも思う。大学生がマルチ商法に引っかかってしまうのと同じことだ。


 
本文で例として挙げられていた、「前科者の指摘」の話に戻る。前科者は前科があるというだけで、必ず犯罪者して扱われるのか? という問題だ。

実際のところ、これは、どうなのだろう。仮に前科があったとしても、その人がその後に善い行いをしていれば、自然とその人自身が信頼を取り戻していくような気がする。逆に、そういった改心をしていないのに、前科のある人が善い行いをしたのだとしたら、どういう心境の変化なのか、というのも気になる。

もし、骨の髄まで善人であったのだとしたら、そもそも、前科を犯したのが何かの間違いだったのではないか、ということも言えそうではあるけれど。
 
「失った信用は、元には戻すのは非常に難しい」とよくいうが、僕はむしろ逆のことを感じることが多い。「あの人、去年はひどかったけど、今年になってから変わったよね」と好意的に評されるような事例をたくさん見てきた。逆もまた然りだが。

「どういう立場の人が発言しているかで、その正当性を見極める」というのは、確かに問題は多いものの、世の中の基本的な仕組みであり、うまく使いこなすことが必要なのかな、と。だんだんと、その「信用の度合い」がブラッシュアップされていくような。

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